「私」は脳のどこにいるか

 脳科学における「ニューロン神経細胞)のスパーク(興奮、発火)のクラスター(塊り、つながり)が人間の思惟活動である」という主張を真面目に提起する唯物主義の脳科学者の考え方はいかにもグロテスクである。確かに、人間がいろいろな思惟、想念を発出するとき、脳電図にはそのような痕跡が見られるが、すべての思惟等を「神経細胞の興奮」に還元して、何が得られるのかという疑問が強く残る。大脳の前頭前野のどこを探しても、物質以外のものは見つけられない。そういうものが発見されれば、ノーベル賞ものだと大森荘蔵は皮肉っている。「私」は脳にいるのかいないのか、どこにいるのか。少なくとも「私の身体」にいるようだが。

 

 澤口俊之の『「私」は脳のどこにいるか』(筑摩書房)はこの問題を論及している。

 「こころ」というものは何なのだろう。「私」とは何だろう。「私」はどこにいるのだろう。脳の中?

では、過去の記憶は?海馬、偏桃体の中?そのように現代の脳科学は解説してくれる。

しかし、本当だろうか。海馬を解剖すると、「私」の過去の映像が出てくるのであろうか。大脳新皮質前頭前野のどの部分に私は発見されるのだろうか。

脳科学者澤口俊之はこう書いている。

「死んだ脳は、モノとして確かに外延(空間的境界 引用者)を持つ。しかし、生きている脳では1000億個ものニューロンが相互に作用しつつ活動しているのである。脳自体は外延を持つが、脳の活動は『プロセス』なのであり、外延を持たない。」(『「私」は脳のどこにいるか』p57-60)そして、ウィリアム・ジェームスの「心理学の原理」の次の記述を引用して書いている。

「意識はモノではなく、プロセスである。」

 澤口は「私という存在は脳の大脳新皮質連合野前頭前野)にある」と明快に結論づけるのだが、その場所にあるのは、ニューロンという神経細胞の集まりなのだ。

 「心・意識は脳の活動である。」(p.28)しかし、「意識も脳活動もプロセスなのである。」(p.60)「意識・心は脳内プロセスである。」(p60)という結論なのだ。

 つまり、実体として(物質として)の「私」はないと言っているのです。(「あくまで『活動』あるいは『過程』であり、『モノ』あるいは『ハード』としての脳ではない。」(p13))

 心脳論とはかくのごとき難問なのだ。

 デカルトが脳の松果体に注目し、「デカルトは大脳の奥底にある松果体に魂が宿ると考え、『魂は松果体を介して外界を認識し、身体に働きかける』という二元論(心・魂と脳・身体は別個のものという考え)を唱えた」(p.47)。

 

 しかし、カントはこの考えに反対だった。

 カントは「視霊者の夢」(中島義道「カントの自我論」p.140からの引用)において書いている。

「物体界におけるこの人間の<こころ>の場所はどこであろうか。私は次のように答えるであろう。その変化が私の変化であるような身体(=物体)、この身体は私の身体であり、身体の場所が同時に私の場所である、と。この身体の中の君の(<こころ>の)場所はいったいどこであるか、とさらに問うならば、私はこの問いの中にうさんくさいものを推測するであろう。なぜなら、次のことに容易に気づくからである。それは、この問いの中には経験によっては知られず、もしかしたら空想された推論に基づくかもしれないものが、すなわち、私の思惟する自我が私の自己に属する身体の他の諸部分の場所にあることが、すでに前提されているということである。だが、誰も自分の身体の中の一つの特別な場所を直接的に意識はせず、彼が人間としてまわりの世界に関して占めている場所を意識している。よって、私は通常の経験をとらえてさしあたり言うであろう。私が感覚するところに私はある、と。」(Bd2.S324)

「<こころ>は自己自身に対していかなる場所も規定することはできない。なぜなら、そのためには<こころ>は自己を自己自身の外的直観の対象にしなければならず、自己を自己自身の外に移さなくてはならないだろうが、これは自己矛盾だからである。」(カント「<こころ>の器官」)

 

 カントはこころの場所を「身体の中の一つの特別な場所」と指定することを拒否した。脳は私の場所ではなく、「私の身体」を構成する器官であり、私の内的経験を構成するための外的器官にすぎない。当然「 肉体の死滅とともに意識が消滅する 」こともカントは主張した。

 

「私」とは、脳の活動であり、活動している限りでのプロセスそのものであり、脳神経科学的に言うならば、「相互作用連結したニューロンの発火のクラスター(つながり)」の中にあるとしか表現できないものであろう。







サルトルの超越の概念について

サルトルは、「性質」という言葉を考察している。この語の意味については、ウェブ辞書 性質(せいしつ)の意味や使い方 Weblio辞書 - 言葉に次のように記されている。

『「1 もって生まれた気質。ひととなり。たち。「温厚な性質」

  2 その事物に本来そなわっている特徴。「燃えやすい性質」「すぐに解決がつくという性質の問題ではない」

[用法] 性質・性格 ――「熱しやすく冷めやすい性質(性格)」のように、人についていう場合には相通じて用いられる。◇「性質」は、人以外の場合でも、「水にとけやすい性質」のように、その物事がもともと持っている特性の意で使われる。◇「性格」を物事について使う場合は、その物事と他との違いをきわだたせるような特徴をいう。「議題と性格が異なる提案は却下する」』

 ただし、サルトルが使ったqualitéというフランス語の辞書に一番目に記載されるのは「品質」という言葉だ。国語の辞書によれば、品質とは「品物(商品・サービス)の質」のことである。この品質と性質という二つの日本語の意味にはかなりの差があるように思われる。

 そしてこの言葉には英語と同じ意味として「質」という意味もある。サルトル自身は日本語の語感で言うと「質」という意味で使っていると思われるが、日本語の質という語には質とは何? Weblio辞書 にあるように、

1 ものを成り立たせている中身。「質量異質音質均質硬質材質実質水質等 質特質品質物質変質本質木質良質

生まれつき。たち。「気質資質性質素質体質美質麗質

飾り気がない。「質実質素質朴

問いただす。「質疑質問」』

「ものを成り立たせている中身」というような意味がある。

 サルトルは次のように書いている。

「性質(あるいは品質、質と当てて読んでみる-引用者)とは、『このもの』(対自によって現前されている具体的な個物)が世界もしくは他の『このもの』たちとのあらゆる外的な関係の外でとらえられるときの、『このもの』の存在より以外の何ものでもない。性質(品質、質)は、あまりにしばしば、単なる主観的な規定と考えられた。」(サルトル存在と無』第一分冊人文書院p447)

 品質または質という意味でこの文章を読むと、いかにもしっくりしない。品質という言葉には「このもの」と他の「このもの」たちとの間にある性能や質の序列に関して、「単なる主観的な規定」ではなく、一定の基準に従った規定によって客観的な性能の水準という意味が含まれているからだ。また、単に「質」とすると、今度は、あまりにも抽象的でこれまたしっくり来ない。ここは、やはり訳者松浪が選んだ「性質」が適訳だと思う。このqualitéはドイツ語で言えば、ヘーゲルも使った性質(性状)(Beschaffenheit)に当たる。おそらくサルトルヘーゲルの考え方を踏襲してこのqualitéを使っているように思われる。

 上の文章は続く。「そしてその場合、その『性質-存在』〔性質であること〕は、心的なものの主観性と混同された。そこでは、諸性質の超越的な統一として考えられる一つの『対象-極』がいかにして成立するかを説明することが、とりわけ問題であるように思われた。だが、われわれがすでに示したようにかかる問題は解決不可能である。一つの性質は、もしそれが主観的であるならば対象化されることはない。かりにわれわれが諸性質のかなたに、一つの 『対象-極』の統一を投影させたところで、それらの性質のおのおのは、直接的には、せいぜい、われわれに対する事物のはたらきの主観的な結果として、与えられるくらいのものであろう。むしろ反対に、レモンの黄色は、レモンをとらえるときの主観的な一つのしかたではない。いいかえれば、レモンの黄色は、レモン(そのもの)である。さらに、『対象-x』がちぐはぐな諸性質の総体をささえる空虚な形式として、あらわれるというのも、やはり真ではない。事実、レモンは、その諸性質を通じてあますところなくひろがっており、またその諸性質のおのおのは、爾余の諸性質のおのおのを通じてあますところなくひろがっている。黄色いのは、レモンの酸っぱさであり、酸っぱいのは、レモンの黄色である。われわれはお菓子の色を食べるのであり、このお菓子の味は、いわば食物直観ともいうべきものに対してそのお菓子の形と色とを開示する手段である。逆にまた、もし私がジャムの壺に私の指を突っ込むならば、このジャムのねばねばした冷たさは、私の指に対するジャムの甘ったるい味の顕示である。或る池の水の、流動性、生ぬるさ、青みがかった色、波動性などは、それら相互を通じて一挙に与えられる。『このもの』(対自によって現前されている具体的な個物)と名づけられるのは、かかる全面的な相互浸透である。」(サルトル同書p447-p448)

 レモンという存在と酸っぱさと黄色という性質は相互浸透する。つまり、「性質とは、『そこに存する』の範囲内で自己を開示するその存在全体だというのだ。「対自は、自分がそれであらぬところのものを、性質によって、自分に告げ知らせる。(たとえば)この手帳の色として赤を知覚することは、対自がこの性質についての内的否定として、みずから自己を反射(反映)することである。(中略)性質は、たえず手のとどかないところにある現前である。」(サルトル同書p449)内的否定としての赤の手帳とは、他の多くの個物が持つ、それらの赤い色ではなく、他でもない、手帳の存在と相互浸透する赤い色なのだ。そしてその赤とはこの手帳そのものであるということである。「性質は、それがいかなる性質であれ、われわれにとっては、一つの存在として開示される。私が両眼を閉じていて突然吸い込む香りは、私がそれを、香りを放つ或る対象に帰するよりもまえに、すでに一つの『香り-存在』であり、決して一つの主観的な印象ではない。朝、私の閉じたまぶたをとおして私の両眼にさしこむ光は、すでに一つの『光-存在』である。」(サルトル同書p450)

 しかし、注意しなければならないのは、「香り-存在」、「光-存在」、「白さの存在、あるいは酸味の存在」、「性質-存在」と言っても、これらは断じて「実体に類する神秘的な支え」が与えられるものではない。「性質の在り方」は対自の在り方とは全く違う。つまり、これらの「性質-存在」は「脱自的」であるわけではないからだ。(サルトル同書p451) 



偶然と運命

 この世(世界)に生を享けて生きていると、予想もしないこと、予期に反したことが多く起こる。善いことや悪いことが起こる。ネーゲルが書いていたように、悪いことの方が多く起こるようだ。人生上の悪いことは、総じて禍(あるいは苦難)と呼ばれる。経済的・社会的な諸困難(貧困、人間関係その他からくるさまざまな悩みや苦しみなど)、自然災害(地震、台風、豪雨による川の氾濫、噴火)人為的災難(交通事故や犯罪被害)。こうした禍に直面した人はなぜ自分がこのような禍に遭うのかという問いを発する。一つの回答は、単なる偶然だろう、運が悪かったのだという回答だ。本人にとって自分の被った禍についての回答として、それで納得することはできるだろうか。

 自分がその禍に匹敵するほどのひどいことをしたのか。何らかの自分の落ち度の報いなのか、代償なのか。もし、その禍の発生の原因について、自分の落ち度(判断ミス、不注意、無知など)が関与していたとする。過去の出来事をすでに起こってしまった後にあれこれと考えるのは人間の癖なのだろう。その出来事がそのようにならないために自分はどうすべきだったのかと考える。被った禍を避けることができたのに、避けるべきだったのに、そうしなかった。これが「後悔と自責」だと中島は言う。自然災害以外の場合、禍が大きければ大きいほど、その禍を自分がなぜ被ったのかと考えることで、自分の落ち度を探求して回るだろう。そして自分の落ち度の可能性を発見する。自然災害だとしても、もしも大切な家族や親族、友人知人が禍に巻き込まれ、被害を受けたときにも、自分の行為の中から、こうすべきだったがしなかったという落ち度を見つける。後悔を始める。自責が始まる。何度も何度も後悔し、そのたびに無念の冷や汗を浮かべて後悔する。自分をこれでもかこれでもかと責め続ける。その苦しみの中で、次の回答が出てくると中島は言う。すなわち「これは運命だと」。

 「せめて、気が狂いそうになるこの苦しみから癒されたい」という「ごく自然な欲望から『運命』という見方」にすがりつくということだ。(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p143)

 ただ、運命―つまり人間を超える超自然的な意志による必然―に「すがりつく人は、すべてが決定されているという明らかな確信のもとにあるのではなく、われわれには不可知の意志的なものがすべてを突き動かしているという信念をもつことにおいて、どうにか苦しみから逃れたい」(中島同書p148-p149)と思う程度の動揺する決定論者にすぎないと中島は書いている。

 さきほどの単なる偶然という理由はなかなか受け入れられないようだ。

 偶然とは何なのか。Wikipediaには偶然の意味が次のように書いてある。

「偶然ぐうぜん英語: contingency)とは、必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。副詞的用法では「たまたま」と同義。ある程度確実である見込みは蓋然と呼ぶ。対語は必然。また、偶然ないし偶然性可能性下位語に該当する。」

偶然 - Wikipedia

 中島は「意図」というものに関係しているのが偶然であるという。

「意図とは『(ある)一つのもの』を記述して確定する手続きに依存して出現するのであって、けっして記述以前のナマの心理現象ではない。」と書いている(中島同書p126)記述とは言語化、言語表出されたものという意味である。意図するとは、ある一つの関心事(目的)について言語化=意識にのぼらせ、実現のための行為をめざそうとすることである。意図的行為の事前の想定内と外、意図の内側と外側に配置される出来事は記述に依存する。そして「あらゆる記述には関心が張りついている。」(中島同書p126-p127)「ある程度重要なこと」は「記述される意図」の外側に配置されると「偶然という資格を得る。」(中島同書p127)意図の枠内のことは偶然ではない想定の内側に配置される。「こうして、私は自分の関心とそれに基づく記述に従って膨大な数の出来事を切り捨てて、偶然起こったことを確保しているのである。」(中島同書p127)

 中島はある日銀座駅前で数十年ぶりに大学時代の知人に出会ったことを説明している。知人との出会いは偶然であり、それ以外の膨大な数の人波に出会うことは偶然ではなく、切り捨てられ、関心の外に追いやられている。

 ここで、私たちは「膨大な数の出来事」を切り捨てるが、「同一のもの」という観念に変換することで切り捨てるのである。駅前の人波は、毎日の通勤で見かけるとしても、「同一のもの」の繰り返しと捉えるのだ。

「こうして、われわれは一方では、『同一のもの』を抉り出しながら、他方では、それでは吸収されない『異質なもの』を感じています。すなわち、現実世界を

(A)『異質なものの絶対的に一回的な継起』として

(B)『同一なものの繰り返し』として

というお互いに融合しえない根源的な二重の視点から見ているのです。」(中島同書p127)

 (A)の世界とは「究極まで行くと言語による表現は不可能ですが、われわれは日々新しいことが生じている(日々新しいことが湧き出している)、刻々と新しい体験をしている」(中島同書p127-p128)世界である。この世界が実感されるときは、「自分にとって実存を突き刺すほどの衝撃的な禍や事故」、「一回かぎりのかけがえのない事故」(中島同書p128)のときである。ただ、この世界は「いかなる名指しもできない世界」であり、「この事故」という言い方をしたとたんに「同一のもの」(事故という観念)に「からめ取られ」てしまう。(中島同書p129)「時折魂を揺さぶられる出来事に遭遇」することで(A)の世界を垣間見る。「だが、『生きていかねばならない!』という叫びとともに、以前のように『同一のもの』を計算する生活に舞い戻る」。(中島同書p129)「人生のみならずこの世で起こる現象のすべてにわたって、刻一刻ほとんど無限と言っていいほど新しいことが生じている。」(中島同書p131)毎日の日常は「繰り返し」=「同一のもの」と思われているが、実は、一日として「同一のもの」はない。常に、いつも異なっている。毎日の通勤一つとっても、仔細に見ればその態様は無限に異なっている。「だが、われわれは普通こうした(たとえば)歩き方の無限に近い差異を重要なものとして認めない。そして、それらの差異を『歩くこと』という『一つの』観念のうちに吸収してしまう。こうして、言葉を学ぶとは、恐るべき多様な差異を同一の観念へとまとめあげる仕方を学ぶことであり、いったん言葉を学んでしまうと、もう世界はそういうさまざまな『同一なもの』の繰り返しとして見えてきてしまいます。」(中島同書p131-p132)

 (B)の世界とは、そうした言語(記号)の世界だから、「そのつどわれわれに迫ってくるのであって、われわれにはあらゆる現象が何らかの『同一のもの』の繰り返しとして見えてしまう。」(中島同書p128)ゆえに、この世界においては、未来の現象が予測できる。過去のトレンドが繰り返しのトレンドであるから、それを未来にそのまま延長することで予測可能となる。天気予報がその好例と言える。

 現在における諸現象の観察も可能となる。経済学がその好例である。GDPの計算は、私たちの消費行為を個人消費として類型化する。企業や国や自治体の設備投資や資本形成や輸出入などの類型的概念(同一のもの)を作った。計量経済学を使って国民経済を計算することができる。

 歴史学は過去の事象を類型化(過去の事象の中から同一のものをいくつかの類型にして分類すること)し、過去の現象を探求することができるようになる。

 この世界は形式合理性(=計算可能性)が貫かれている世界、物理学的な自然法則を数学的に計算できる世界となっている。それは科学的知識と呼ばれ、産業革命が起こり、近代社会ができた。

 「同一のもの」という視点から数学の確率論が展開される。「同一のもの」のうちから私がある特定の出来事(事象)を選択し、これを分子とし、膨大な数の出来事(事象)を分母にする。その確率計算の答えはどれくらいのものとなるだろうか。

 中島は例として文永(1274年)・弘安(1281年)の役(元寇)の二つ台風を取り上げる。台風という「同一のもの」を「二種類の『同一のもの』の確定(記述)」として分類する。(中島同書p134)

「(1)すべての台風を『台風』であるがぎり『同一のもの』とみなす。

 (2)『国を外敵から救う』という特定の事象(この場合は作用)を『同一のもの』     とみなす。」(中島同書p134)

 このようにして確率計算をすれば、「数万分の一」の「その二乗分の一」(2回生起したから)、よって「ほとんどゼロ」となる。(中島同書p135)これを私たちは「偶然」であると読み込む。

 過去の歴史上の出来事(事象)をこのように加工して確率計算をすることは実際には無意味である。なぜなら、「どんなに確率が小さい出来事も現に起こる」(中島同書p135)のだから。

「いかに確率について理解しようと努めても、めぐりめぐって『なぜ、次のシングルケースにおいては、いかに小さな確率のものでも起こってしまうのか?』という単純な問いは依然として残ります。いかにどんなに起こりにくい確率のものでも、起こってしまえば、不完全に起こったわけではない。数千万枚発売されたうち一枚だけの特等二億円の宝くじでも、当たってしまえば完全に当たったのであり、確率が数十万分の一より小さい航空機墜落事故でも、起こってしまえば、完全に墜落(して、たまたまその機に乗った搭乗客が犠牲になることが起こったり)するのです。(改行)こうした疑問から、じつは『これまで』と『これから』(過去と未来)との間には大きな裂け目があることがわかってくる。あらゆる科学的知識がそれを無理やり『つなごう』と企てていること、確率など高度な論理を使って、いかにそれを巧妙になしとげようとしても、いたるところぼろぼろと綻びていくのです。」(中島同書p139)

 中島は確率計算については、10年後に書いた『不在の哲学』(筑摩書房2016年2月10日で書いている。

「自然現象がことごとく自然因果性(自然法則に基づく物理学的因果関係)に従っていることを認めながらも、それをとくに運命と結びつけるときに偶然性や必然性という概念が入ってくるのである。まず包括的な全宇宙の摂理、あるいは神の意志を漠然と想定し、われわれ人間にとって偶然に見えることも、その超越的視点(神の視点)からはすっかり見通せるのであって、あらかじめ決定されているという意味で必然的なのだ。ここでも、偶然性や必然性の導入にあたっていわば『視点の欠如した客観的世界』に特権的視点を導入していることに注意すべきであろう。それが、すべてを見透すような視点であろうとも、やはり主観的視点であることに変わりはない。「われわれが人類の誕生や自分の誕生を天文学的に低い確率とみなすのは、一度限りの出来事にさまざまな『不在』の衣(出来事に属さない無意味な衣)を着せて天文学的に低い確率という意味を付与しているにすぎない。われわれは、この天文学的に低い確率を世界における出来事自身の客観的性質と思い込んでしまうのである。」(中島前掲書p342)そうした「偶然性とは、(中略)『私』が、あるいは(ある共同体において)『われわれ』が、それぞれ固有のパースペクティブ(視点)からさまざまな『相貌』を付与するときに成立するものなのであり、客観的出来事に対して与える主観的意味であり、出来事それ自身には属さないという意味で『不在』なのである。」(同p348)

 ここで不在という概念の意味は下記の通りである。

「言葉を学んだ有機体としてのわれわれは、<いま・ここ>に視点を定め現在(現存在)していながらも、<いま・ここ>で直接体験していること以外の膨大な出来事(それは今ここに現存在していないという意味で不在である)について語れるのである。だからこそ、『不在』は哲学の議論において、いたるところに出没して実在を支えるものとなっている。」(中島前掲書p10)

 偶然に見える出来事が、その後の私たちに大きな影響を及ぼす場合、その偶然は運命と言い換えられる。運命とは何か。

「自然現象がことごとく自然因果性(自然法則に基づく物理学的因果関係)に従っていることを認めながらも、それをとくに運命と結びつけるときに偶然性や必然性という概念が入ってくるのである。まず包括的な全宇宙の摂理、あるいは神の意志を漠然と想定し、われわれ人間にとって偶然に見えることも、その超越的視点(神の視点)からはすっかり見通せるのであって、あらかじめ決定されているという意味で必然的なのだ。ここでも、偶然性や必然性の導入にあたっていわば『視点の欠如した客観的世界』に特権的視点を導入していることに注意すべきであろう。それが、すべてを見透すような視点であろうとも、やはり主観的視点であることに変わりはない。(改行)偶然的世界観は運命論(必然的世界観)の裏返しであって、『すべてが偶然だ』ということは、『すべてが運命(必然)だ』という語り方と表裏一体の関係にある。超越的視点からは摂理=運命によってすべての出来事が起こっているのだが、人間の眼にはそのすべてが偶然に見えてしまうのだ。なぜ自分には次から次に禍が降りかかってくるのであろう?それが運命(必然)であることはわかっているが、自分には偶然にしか見えないのである。(改行)オイディプスのように、あるいはマクベスのように、個人の意志を超えた『より強大な意志』を認めるとき、彼はいかにその意志に逆らっても、その意志通りのことが実現してしまう。これは、先に触れた『運命論』であって、彼個人は見透すことができないという側面を強調すると偶然性という様相が前面に出てくるのに対して、より強大な超越的なものの意志という側面を強調すると、必然性という様相が前面に出てくるわけである。」(中島前掲書p351-p352)

 では、私たちに降りかかる禍(苦難)に対してどういう態度をとればよいのか。

 中島の回答はこうだ。あらゆる禍(苦難)に対して、これは「一回かぎりの」・「取り返しがつかない」ものであり、「このすべてを認めるほかないこと、そしてそれ以外のいかなる理屈も断固拒否すること」。(中島同書p154)。これは、すなわち、運命(必然)だったのだとか、すべては決定されていたとかいう理屈=人間を超える超自然的意志による決定はないと認めること、あるいは、「すべては偶然」という考えもとらないこと、である。中島によれば、運命論(決定論)も裏返しだという。つまり、人間を超える超自然的意志による決定を単に知りえないから、すべてが偶然に見える。見えざる神の決定(超自然的意思決定)は、人間の眼には恐ろしい偶然に見えるのだ。

 中島によれば、すべては必然でも偶然でもない、一回限りの出来事で、そのすべてを認めるほかはないという。しかし、そうは言っても、この本のあとがきには以下のように書いている。

「もうじき還暦(2006年当時-引用者)を迎える私の人生は、後悔と自責の連続でした。それは客観的にひどかったというより、(中略)私は、ある直観によって、子供のころから心ゆくまで後悔することを、自責の念をけっして潰さないことを心がけてきた。そのため、時折(いまでも)からだがもたなくなるんじゃないかと思うほど後悔し、このまま狂うんじゃないかと恐れるほど自責の念に駆られます。なぜ過去を変えることができないのか?この問いは、私にとって(いまでも)恐ろしく真剣な問いなのです。(改行)しかし、あまりにも後悔や自責にさいなまれて、もうすっかり生きていくのが厭になり、死んでしまおうかとも思いながらも、ふとさらに恐ろしい事実に気づく。それは、生まれてきたこと、それゆえもうじき死んでしまわなければならないことであり、この事実は、それについて私がいかなる後悔も自責もできないゆえに、いっそう残酷です。」(中島同書p178-p179)

預定説と人間(ウェーバーの宗教社会学から)その4

キリスト教ローマ帝国によって国教になり、カトリック教会が成立した後、この預定説は否定され、キリスト教はキリストを信じる全人類を救済する宗教となった。

 宗教改革の実行者の一人、マルティン・ルターは書いている。

「神はその望むところに従ってわれらを滅亡に追いやるほど義であり給うと信ずるのはもっとも高き段階での信仰である。」

「キリストが死に給うたのもただ選ばれた者だけのためであり、...」(M・ルター「奴隷意志論」M・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」からの引用)

 ジャン・カルヴァンも「キリスト教綱要」(1536)で、預定説(予定説)を説いた。

 

「ここで説かれているかれの教えで絶対に覚えなければいけないのが「予定説」というものです。予定の「予」は「あらかじめ」、「定」は「決定している」という意味。なにがあらかじめ決定しているのかというと、われわれ一人ひとりが天国にいけるかどうかが、あらかじめ決定してる、という意味です。 

 普通、救われるかどうかは信仰の深さ、日々の行い、そういったもので決まると考えられています。教会の教えにしたがい、信仰を守っていれば神様はきっと救ってくださる、というわけです。

 ところが、カルヴァンは、そんなことはない!と言い切る。カルヴァンによれば神というのはものすごく超越的なもので、神がどういうふうに考えて、世界をどう動かすかなどということは、人間ごときが想像してわかるものではない。一所懸命信仰すれば救われるなどというのは人間の勝手な思いこみで、神は自分の偉大さを示すために人間の努力などの及ばないところで誰を救うかをあらかじめ決めているのだ、というのです。

 あらかじめというのは、その人が生まれる前から決まっているということです。だから、神様に選ばれている人は、悪いことをさんざんしても、極端に言えば神を信じなくても救われる。選ばれていない人は、いくら教会に熱心に通い、祈り、善行を積んでも救われない、という理屈になる。人間には、神が何を規準に救う人救わない人を分けるのかはわからない。わからないことこそが神の偉大さなのです。

 これは、恐ろしい考え方で、予定説が正しいとすれば、信仰しても信仰しなくても結果は同じ。だったら教会も神様も全部無視して好き勝手に生きればいいという考えになりそうでしょ。

 カルヴァンは言うわけですよ。信者に向かって、「あなたが救われるかどうかは誰にもわからない。」「一所懸命神に祈っても無駄である」。こういう言葉でしゃべったかどうかはわかりませんが、内容はそういうことです。

 でも、カルヴァンの教えが広く受け入れられた核心部分がこの予定説なのです。なぜでしょうか。

 多分こういうことだったのではないか。

 カルヴァンに誰が救われるかはわからないと言われたときに、ほとんどの人は自分が救われない人とは思わない。「自分は神に選ばれているに違いない」、もっと露骨に言えば「他の全部が地獄に堕ちても私だけは神に選ばれているはずだ」と考えたのです。自分だけは大丈夫というやつです。

 そう考えると、次には「神様、私を選んでくれてありがとう」と思う。自分を選んでくれた神様におのずから感謝を捧げる気持ちになる。熱心に信仰するようになる、というわけです。一見厳しい教義ですが、はまった人にとってはエリート意識をくすぐられるのではないかと想像します。

 ただ、信者は自分が選ばれている人間だと思うものの、何の証拠もない。少しでも自分が選ばれた人間である手がかりが欲しいと思うものです。」(金岡忍「世界史講義録」:http://www.geocities.jp/timeway/kougi-HYPERLINK "http://www.geocities.jp/timeway/kougi-60.html"60HYPERLINK "http://www.geocities.jp/timeway/kougi-60.html".html

 

そして、カルヴァン派信徒たちは、、次のように現世を生きてゆくことになる。(小室直樹「日本人のための宗教原論、徳間書店、2000.6.30、同「天皇の原理」文芸春秋1993.6.15より)

1.救われている人の三つの条件

  ①救われている人はキリスト教を信仰している。(キリストの復活を信

      じている)

  ②神の万能を信じ、予定説を信じている。

  ③カルヴァン派の教えを信じている。

2.予定説を受容したカルヴァン派信徒たちの心理メカニズム

    ①ひょっとしたら、自分は救われている人々の中に選ばれているに違い 

     ない。

  ②しかし、それは誰も知らないので、現世の中で<救いの確かさ>を求  

      め続けるしかない。(信仰の無限軌道)

  ③<救いの確かさ>は、まずは、「救われている人の三つの条件」を満

     たし、予定説の逆因果律(善きことをするから神が救済すると予定した

     のではなく、予定したから、善きことをする。同じく悪しきことをする

     から神が予定しないのではなく、神が予定しないから、この人は悪しき

     ことをするのだということ。)に従って「救いの側に予定されている」

     から、善をなす人こそ自分である。ゆえに自分は善をなしている。これ

     は自分が救われている確かな証だろうと考える。彼は決して悪をなさ

     ぬ。救いの確かさを得るためにも。

  ④キリスト者(かつ救われている者)の義務は、現世において神の栄光

      を増大させてしてゆくことであり、その手段は隣人愛の実践である。

      隣人愛の実践とは、隣人たちが日常必要であるが、自らは生産してい

      ないものを作るということである。カルヴァン派の信徒は商工業に従

      事し、そうした職業労働に精励することによって利益(利潤)=富が

      増してゆくとき、その富の大きさこそが、<救いの確かさ>に違いな

      い。こうして、鋼鉄のようなピューリタン的商人(ウェーバー)が誕

      生した。



預定説と人間(ウェーバーの宗教社会学から)その3

 イエスを教祖とする原始キリスト教は、有能なオルガナイザーであったパウロによって大教団に発展する。そのパウロは、新約聖書「ローマ人への手紙」第3章10-12)において、つぎのように書いている。

旧約聖書に、次のように書いてあるとおりです。『正しい人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない、 すべての人が道を踏み外し、みな、間違った方向に進んで行った。正しいことをずっと行ってきた人はどこにもいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、地を流すのに早く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。』

『 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神の裁きに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、代価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(同第3章21-22)

 ここで、パウロは「すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんら差別もない」と書いている。「信じる人」は罪にまみれていても、(律法を守っていても、守っていなくても)無条件に義とされる、と書いている。この論理がそのまま貫かれるならば、キリスト教はキリストを信じる全人類を救う宗教であることができる。

 ところが、「ローマ人への手紙」を読んでゆくと、奇妙な表現が出てくる。

「 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

  神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(同第8章28-29)

「また子供らが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の撰びの計画が、わざによらず、召したかたによっておこなわれるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。」(同第9章11-12)

「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自分の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。」(同9章21-24)

「それと同じように、今の時にも、恵みの撰びによって残された者がいる。しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである。」(同第11章5-6)

 これこそ、「隠れたる神の預定説」ではないだろうか。神は予定(計画、撰びの計画、あわれみの器として、召される、恵みの撰び)によって「少数のものだけを選び、その人を求めて信ぜしむ」のだという予定説こそ、パウロは考えていたのではないだろうか。




預定説と人間(ウェーバーの宗教社会学から)その2

「運命と功績の不一致の根拠に関する問いに満足のいくような合理的な答えをあたえうる、そうした思想体系の姿をとったものはごく僅かーのちに見るように、全体として三つの思想体系だけーであった。すなわち、インドの業の教説(die indische Karmanlehre)、ゾロアスター教の二元論(den zarathustrischen Dualismus)、および、隠れたる神の預定説(das Praedestinationsdekret des Deus absconditus)、この三つであった。」

 ライプニッツの弁神論には、この「隠れたる神の預定説」がもつ恐ろしい思想が語られていない。

 パウロアウグスティヌス、ルター、カルヴァンが説いた預定説は「永遠の昔(神が被造物を創造したとき)から、救われている者と救われていない者とがすでに決定されている。永遠に神の国に住むことができる者として予定されている者と永遠に滅びを予定されている者とがいる」というものだ。だれが救われており、だれが救われていないのかは被造物の人間には永遠に計り知れないのだ、とされる。つまり、神が創った陶芸品(=人間)の中で、作品として残されるものと、失敗作として割られ、廃棄されるものの差もその理由も、陶芸品には永遠に知られえないのと同じだというものである。

 これほど恐ろしい思想はない。そんな思想が普通のひとびとに受け入れられるわけがない。そこで、カトリック教会は、修道院において徳のある修道僧が徳を積み、その徳を免罪符として一般の衆生に販売するという方法を考えだした。その免罪符を買えば、永遠に滅びに預定された衆生も救済されるということにしたのである。

 宗教改革で、ルターやカルヴァンカトリック教会の偽善を告発し、あの未曾有の大混乱=宗教戦争が始まった。

 ライプニッツは、その新教と旧教との和解と統合を目指したと言われるが、ついに成功しなかった。本人はカトリックの考えに近かったにもかかわらず、新教のまま改宗はしなかった。そして「最善説」(Optimisme)を提唱し、「現実を見れば悲惨なことは目に余るほどであるが、これでも『最善』であるという認識はまさに”realisme"にほかならない。」(中島義道「後悔と自責の哲学」河出書房新社 2006.4.30p.64から引用)とした。

 楽観主義(Optimisume)という言葉はライプニッツのこの最善説から来ている。この理不尽で、不合理な現世に対する冷徹な現実主義(realisme)としての楽観主義(Optimisume)は、いったいどういう経緯で生まれたものなのだろうか。それは、まさしく、創造主が作りだした世界に対する徹底的な信頼から来ている。「(神が作り給うた)すべて存在するものは善いものである」(アウグスチヌス)からこそ、いかに悲惨な現実を見せられても、「これこそが最善の結果なのだ、この結果よりももっと悲惨な結果もありえたのであり、この結果ですんだことこそが神のご加護があった証である。」と主張する。

 この考え方そのものは、じつは、人間が苦難にめげずに生き抜いてゆくためには、好都合な考え方ではある。ただし、こうした考え方を生の中核にすえて生きてゆくことができるひとは、非常に限られた人々なのではないだろうか。

 この「限られた人々」とはどういう人々だろうか。




預定説と人間(ウェーバーの宗教社会学から)その1

ライプニッツは「モナドジー 形而上学叙説」中央公論社2005年1月10日

の中で、すべての現象には理由があると書いた。これは「充足理由律」というものである。カントもこれは正しいと「純粋理性批判」に書いている。それはこういうことだ。

「現に生起する現象が一見いかに不可思議で理不尽に見えても、そう見えるのはわれわれの眼や思考が限られているからであって、すべての出来事はわれわれには知られえない無数の理由によって起こる。」(中島義道「後悔と自責の哲学」河出書房新社2006年4月30日からの引用)

 アウグスティヌス(古代キリスト教神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人)は「すべて存在するものは善いものである」と言った。アウグスティヌスから続く欧州の中世スコラ神学の系譜を踏襲するライプニッツは、当然弁神論の立場からこう言ったのだが、ニーチェが出て、「神は死んだ」とされてから、大方の現代人は、単純に、”完全なる「神が善意によって選び、力によって生み出す」”(ライプニッツ同書p.21)この善なる世界というものを信じることはできない。

 しかしながら、現実に起こることがいかに悲惨であろうと、それは最善の世界なのだというオプティミズムは、なぜかしら、心の奥底にある情念を揺さぶる思想なのだ。なぜなら、人間は意味・意義を求めて止まない存在だからだ。(自然の威力を”天罰”と呼びたいのが人間である。)

 そして、歴史を学び、その因果の連鎖を辿るとき、その原因(無数の原因)を知ることが不可能だと悟るからである。

 今までのあらゆる世界の歴史を見てみると、目的論的因果連関(われわれの選択と意志とそれらに基づく行為の因果連関)と客観的因果連関(実際の歴史的事実の因果連関)とは常に乖離するのが常であった。なぜ乖離するのかと言えば、この 充足理由律 と微小表象(人間の認識能力を超える微小な原因が連続して作用することで生起する)があるからだと思われる。これは、神の存否とは関係のない問題のはずであった。

 しかしながら、ここから「苦難の神議論」が生じる。人間諸個人は、偶然に生まれさせられ、理不尽に死んでしまうという最大の悲惨に重ねて、生きてゆく過程でさまざまな艱難辛苦を受けるが、その意味を説明してほしいという生に根ざした欲求(ウエーバーの言葉)がある。

 その欲求に答えたものが、救済宗教で、これまでの世界史上には、3つのみ(”nur drei”)存在したと言われている。(M・ウェーバー「宗教社会学論集」S.246-247 邦訳「宗教社会学論選」みすず書房1975年10月25日p48-49)