預定説と人間(ウェーバーの宗教社会学から)その2

「運命と功績の不一致の根拠に関する問いに満足のいくような合理的な答えをあたえうる、そうした思想体系の姿をとったものはごく僅かーのちに見るように、全体として三つの思想体系だけーであった。すなわち、インドの業の教説(die indische Karmanlehre)、ゾロアスター教の二元論(den zarathustrischen Dualismus)、および、隠れたる神の預定説(das Praedestinationsdekret des Deus absconditus)、この三つであった。」

 ライプニッツの弁神論には、この「隠れたる神の預定説」がもつ恐ろしい思想が語られていない。

 パウロアウグスティヌス、ルター、カルヴァンが説いた預定説は「永遠の昔(神が被造物を創造したとき)から、救われている者と救われていない者とがすでに決定されている。永遠に神の国に住むことができる者として予定されている者と永遠に滅びを予定されている者とがいる」というものだ。だれが救われており、だれが救われていないのかは被造物の人間には永遠に計り知れないのだ、とされる。つまり、神が創った陶芸品(=人間)の中で、作品として残されるものと、失敗作として割られ、廃棄されるものの差もその理由も、陶芸品には永遠に知られえないのと同じだというものである。

 これほど恐ろしい思想はない。そんな思想が普通のひとびとに受け入れられるわけがない。そこで、カトリック教会は、修道院において徳のある修道僧が徳を積み、その徳を免罪符として一般の衆生に販売するという方法を考えだした。その免罪符を買えば、永遠に滅びに預定された衆生も救済されるということにしたのである。

 宗教改革で、ルターやカルヴァンカトリック教会の偽善を告発し、あの未曾有の大混乱=宗教戦争が始まった。

 ライプニッツは、その新教と旧教との和解と統合を目指したと言われるが、ついに成功しなかった。本人はカトリックの考えに近かったにもかかわらず、新教のまま改宗はしなかった。そして「最善説」(Optimisme)を提唱し、「現実を見れば悲惨なことは目に余るほどであるが、これでも『最善』であるという認識はまさに”realisme"にほかならない。」(中島義道「後悔と自責の哲学」河出書房新社 2006.4.30p.64から引用)とした。

 楽観主義(Optimisume)という言葉はライプニッツのこの最善説から来ている。この理不尽で、不合理な現世に対する冷徹な現実主義(realisme)としての楽観主義(Optimisume)は、いったいどういう経緯で生まれたものなのだろうか。それは、まさしく、創造主が作りだした世界に対する徹底的な信頼から来ている。「(神が作り給うた)すべて存在するものは善いものである」(アウグスチヌス)からこそ、いかに悲惨な現実を見せられても、「これこそが最善の結果なのだ、この結果よりももっと悲惨な結果もありえたのであり、この結果ですんだことこそが神のご加護があった証である。」と主張する。

 この考え方そのものは、じつは、人間が苦難にめげずに生き抜いてゆくためには、好都合な考え方ではある。ただし、こうした考え方を生の中核にすえて生きてゆくことができるひとは、非常に限られた人々なのではないだろうか。

 この「限られた人々」とはどういう人々だろうか。