2018-01-01から1年間の記事一覧

生きて死ぬということ

なぜ自分はこの場所、この国に、この両親の間に生まれたのだろうか。物心がつき、高校で生物学を学んで哺乳動物の生態を学んでヒトという動物が私であることを理解した。しかし、その時にはすでに、言葉を覚え、学び、固有の文化に育まれていた。ただ、やは…

 必然とは何か

必然的なものはなにもなく、にもかかわらず、偶然的に見えるものが現れるという不条理・理不尽が現れる。すなわち「人間は常に予測のつかない状況に投げ込まれているが、しかも...決断し行為しなければならない。そして、その行為によって引き起こされた…

偶然を恐れるな

「偶然を恐れ」るなと中島・ニーチェは言う。「いかに予測に外れたことでも、いかに理不尽なことでも、いかに不平等に見えることでも、現に生起した以上、それを完全に承認し受け容れ」よと言う。(中島義道『過酷なるニーチェ』河出書房新社2016年11月20日…

ニーチェの「神は死んだ」

ニーチェは「神は死んだ」(正確に言うと、Gott ist totは「神は(もともと)死んでいる」、つまり神はもともといないという意味)と言った。真昼に提灯を下げて、その狂人は街の広場の民衆にそう叫んだ。これは単なるたとえ話である。ヨーロッパ人は、おそ…

「慣習と理知の氷」

「人間は、一日に十八万七千もの思いをいだくという。(改行)だがその九八%は、過去の記憶の再生。聞くもの、見えるもの、想うことのほとんど、昨日や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけに、いやでも自動的にふち取られてしまう。概知の…

 伊丹十三のこと

伊丹十三は書いている。「私は、ですね、一言でいうなら、『幸福な男』なんです。然り。私は幸福である。あのね、正月なんか、女房子供と散歩するでしょ?うちの近所は一面の蜜柑畑ですよね。その蜜柑畑の中の細い道を親子で散歩しているとだね、あたりはし…

生への執着

「死を直視すべきです。しかし、生への執着を責める理由はありません。それは『悪あがき』ではありません。生への執着には、素直な力強さが感じられます。人間の生命力の強さの表現、生きたいという自然の願望です。それは与えられた生命を完全燃焼させよう…

<いま>というものの不思議

今日、一週間、一年がずっと続くような感じがする。日常生活というものは、三回の食事をはじめ、一見繰り返しのように極めて類似した形式をとっているが、一つとして同じ今日、一週間、一年というものは本当はない。しかし、同型的な繰り返しに近い形式であ…