死に関するサルトルとハイデガー

 サルトルは「私の死」というところで次のように書いている。

「それ(死)は、私のすべての可能性の無化として、それ自身もはや私の諸可能性の一部をなさないところの無化として、とらえられる。」(サルトル存在と無』第三分冊 人文書院 昭和45年(1970年)12月20日p238)

「(主観的な個人としての私にとって)の死は、決して、人生にその意味を与えるところのものではない。むしろ反対に、死は、原理的に人生からあらゆる意味を除き去るところのものである。」(サルトル同書p244)では誰が死んだ人間に人生の意味を与えるのか。「死の存在そのものは、われわれ自身の人生において、他者の利益のために、われわれをそっくりそのまま他者のものたらしめる。死者であるとは、生者たちの餌食となることである。」サルトル同書p252)「死ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられることであり、自分の意味や、自分の勝利の意味そのものをまでも、他人から頂戴することである。」(サルトル同書p253)「死は、一つの偶然的な事実である。」(サルトル同書p256)「われわれが生まれたということは、不条理である。われわれが死ぬことも不条理である。」(サルトル同書p259)「まさにわれわれは、つねに、おまけに死ぬ」。(サルトル同書p262)

 サルトルハイデガーの『存在と時間』への反論として「私の死」論を書いている。サルトルハイデガーの次のような文章への反発として上記の文章を書いたのではないかと思う。

「宿命的な現存在(人間存在)は、世界-内-存在として、本質上他者と共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起は、共生起であって、運命として規定されている。この運命でもってわれわれが表示するのは、共同体の、民族の生起なのである。運命が個々の宿命から合成されないのは、相互共存在が、幾人かの主体がいっしょになって出来したものだと解されえないのと、同様である。同一の世界の内での相互共存在において、また特定の諸可能性に向かっての決意性において、さまざまの宿命はもともとすでに導かれていたのである。」(ハイデガー存在と時間中央公論社 1998年3月25日 p593)

 もちろん、個人の死は他有化(生者たちの餌食)される場合もあるが、世界-内-存在、歴史-内-存在(廣松渉の言葉)として生まれた現存在は、宿命(被投性、事実性、そこに偶然に産み落とされたこと)としてはじめから共存在(対他存在)として実存する。相互共存在として在る現存在は死によって現存在の生の意味を奪い去られるとは限らないのでないだろうか。