偶然と運命

 この世(世界)に生を享けて生きていると、予想もしないこと、予期に反したことが多く起こる。善いことや悪いことが起こる。ネーゲルが書いていたように、悪いことの方が多く起こるようだ。人生上の悪いことは、総じて禍(あるいは苦難)と呼ばれる。経済的・社会的な諸困難(貧困、人間関係その他からくるさまざまな悩みや苦しみなど)、自然災害(地震、台風、豪雨による川の氾濫、噴火)人為的災難(交通事故や犯罪被害)。こうした禍に直面した人はなぜ自分がこのような禍に遭うのかという問いを発する。一つの回答は、単なる偶然だろう、運が悪かったのだという回答だ。本人にとって自分の被った禍についての回答として、それで納得することはできるだろうか。

 自分がその禍に匹敵するほどのひどいことをしたのか。何らかの自分の落ち度の報いなのか、代償なのか。もし、その禍の発生の原因について、自分の落ち度(判断ミス、不注意、無知など)が関与していたとする。過去の出来事をすでに起こってしまった後にあれこれと考えるのは人間の癖なのだろう。その出来事がそのようにならないために自分はどうすべきだったのかと考える。被った禍を避けることができたのに、避けるべきだったのに、そうしなかった。これが「後悔と自責」だと中島は言う。自然災害以外の場合、禍が大きければ大きいほど、その禍を自分がなぜ被ったのかと考えることで、自分の落ち度を探求して回るだろう。そして自分の落ち度の可能性を発見する。自然災害だとしても、もしも大切な家族や親族、友人知人が禍に巻き込まれ、被害を受けたときにも、自分の行為の中から、こうすべきだったがしなかったという落ち度を見つける。後悔を始める。自責が始まる。何度も何度も後悔し、そのたびに無念の冷や汗を浮かべて後悔する。自分をこれでもかこれでもかと責め続ける。その苦しみの中で、次の回答が出てくると中島は言う。すなわち「これは運命だと」。

 「せめて、気が狂いそうになるこの苦しみから癒されたい」という「ごく自然な欲望から『運命』という見方」にすがりつくということだ。(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p143)

 ただ、運命―つまり人間を超える超自然的な意志による必然―に「すがりつく人は、すべてが決定されているという明らかな確信のもとにあるのではなく、われわれには不可知の意志的なものがすべてを突き動かしているという信念をもつことにおいて、どうにか苦しみから逃れたい」(中島同書p148-p149)と思う程度の動揺する決定論者にすぎないと中島は書いている。

 さきほどの単なる偶然という理由はなかなか受け入れられないようだ。

 偶然とは何なのか。Wikipediaには偶然の意味が次のように書いてある。

「偶然ぐうぜん英語: contingency)とは、必然性の欠如を意味し、事前には予期しえないあるいは起こらないこともありえた出来事のことである。副詞的用法では「たまたま」と同義。ある程度確実である見込みは蓋然と呼ぶ。対語は必然。また、偶然ないし偶然性可能性下位語に該当する。」

偶然 - Wikipedia

 中島は「意図」というものに関係しているのが偶然であるという。

「意図とは『(ある)一つのもの』を記述して確定する手続きに依存して出現するのであって、けっして記述以前のナマの心理現象ではない。」と書いている(中島同書p126)記述とは言語化、言語表出されたものという意味である。意図するとは、ある一つの関心事(目的)について言語化=意識にのぼらせ、実現のための行為をめざそうとすることである。意図的行為の事前の想定内と外、意図の内側と外側に配置される出来事は記述に依存する。そして「あらゆる記述には関心が張りついている。」(中島同書p126-p127)「ある程度重要なこと」は「記述される意図」の外側に配置されると「偶然という資格を得る。」(中島同書p127)意図の枠内のことは偶然ではない想定の内側に配置される。「こうして、私は自分の関心とそれに基づく記述に従って膨大な数の出来事を切り捨てて、偶然起こったことを確保しているのである。」(中島同書p127)

 中島はある日銀座駅前で数十年ぶりに大学時代の知人に出会ったことを説明している。知人との出会いは偶然であり、それ以外の膨大な数の人波に出会うことは偶然ではなく、切り捨てられ、関心の外に追いやられている。

 ここで、私たちは「膨大な数の出来事」を切り捨てるが、「同一のもの」という観念に変換することで切り捨てるのである。駅前の人波は、毎日の通勤で見かけるとしても、「同一のもの」の繰り返しと捉えるのだ。

「こうして、われわれは一方では、『同一のもの』を抉り出しながら、他方では、それでは吸収されない『異質なもの』を感じています。すなわち、現実世界を

(A)『異質なものの絶対的に一回的な継起』として

(B)『同一なものの繰り返し』として

というお互いに融合しえない根源的な二重の視点から見ているのです。」(中島同書p127)

 (A)の世界とは「究極まで行くと言語による表現は不可能ですが、われわれは日々新しいことが生じている(日々新しいことが湧き出している)、刻々と新しい体験をしている」(中島同書p127-p128)世界である。この世界が実感されるときは、「自分にとって実存を突き刺すほどの衝撃的な禍や事故」、「一回かぎりのかけがえのない事故」(中島同書p128)のときである。ただ、この世界は「いかなる名指しもできない世界」であり、「この事故」という言い方をしたとたんに「同一のもの」(事故という観念)に「からめ取られ」てしまう。(中島同書p129)「時折魂を揺さぶられる出来事に遭遇」することで(A)の世界を垣間見る。「だが、『生きていかねばならない!』という叫びとともに、以前のように『同一のもの』を計算する生活に舞い戻る」。(中島同書p129)「人生のみならずこの世で起こる現象のすべてにわたって、刻一刻ほとんど無限と言っていいほど新しいことが生じている。」(中島同書p131)毎日の日常は「繰り返し」=「同一のもの」と思われているが、実は、一日として「同一のもの」はない。常に、いつも異なっている。毎日の通勤一つとっても、仔細に見ればその態様は無限に異なっている。「だが、われわれは普通こうした(たとえば)歩き方の無限に近い差異を重要なものとして認めない。そして、それらの差異を『歩くこと』という『一つの』観念のうちに吸収してしまう。こうして、言葉を学ぶとは、恐るべき多様な差異を同一の観念へとまとめあげる仕方を学ぶことであり、いったん言葉を学んでしまうと、もう世界はそういうさまざまな『同一なもの』の繰り返しとして見えてきてしまいます。」(中島同書p131-p132)

 (B)の世界とは、そうした言語(記号)の世界だから、「そのつどわれわれに迫ってくるのであって、われわれにはあらゆる現象が何らかの『同一のもの』の繰り返しとして見えてしまう。」(中島同書p128)ゆえに、この世界においては、未来の現象が予測できる。過去のトレンドが繰り返しのトレンドであるから、それを未来にそのまま延長することで予測可能となる。天気予報がその好例と言える。

 現在における諸現象の観察も可能となる。経済学がその好例である。GDPの計算は、私たちの消費行為を個人消費として類型化する。企業や国や自治体の設備投資や資本形成や輸出入などの類型的概念(同一のもの)を作った。計量経済学を使って国民経済を計算することができる。

 歴史学は過去の事象を類型化(過去の事象の中から同一のものをいくつかの類型にして分類すること)し、過去の現象を探求することができるようになる。

 この世界は形式合理性(=計算可能性)が貫かれている世界、物理学的な自然法則を数学的に計算できる世界となっている。それは科学的知識と呼ばれ、産業革命が起こり、近代社会ができた。

 「同一のもの」という視点から数学の確率論が展開される。「同一のもの」のうちから私がある特定の出来事(事象)を選択し、これを分子とし、膨大な数の出来事(事象)を分母にする。その確率計算の答えはどれくらいのものとなるだろうか。

 中島は例として文永(1274年)・弘安(1281年)の役(元寇)の二つ台風を取り上げる。台風という「同一のもの」を「二種類の『同一のもの』の確定(記述)」として分類する。(中島同書p134)

「(1)すべての台風を『台風』であるがぎり『同一のもの』とみなす。

 (2)『国を外敵から救う』という特定の事象(この場合は作用)を『同一のもの』     とみなす。」(中島同書p134)

 このようにして確率計算をすれば、「数万分の一」の「その二乗分の一」(2回生起したから)、よって「ほとんどゼロ」となる。(中島同書p135)これを私たちは「偶然」であると読み込む。

 過去の歴史上の出来事(事象)をこのように加工して確率計算をすることは実際には無意味である。なぜなら、「どんなに確率が小さい出来事も現に起こる」(中島同書p135)のだから。

「いかに確率について理解しようと努めても、めぐりめぐって『なぜ、次のシングルケースにおいては、いかに小さな確率のものでも起こってしまうのか?』という単純な問いは依然として残ります。いかにどんなに起こりにくい確率のものでも、起こってしまえば、不完全に起こったわけではない。数千万枚発売されたうち一枚だけの特等二億円の宝くじでも、当たってしまえば完全に当たったのであり、確率が数十万分の一より小さい航空機墜落事故でも、起こってしまえば、完全に墜落(して、たまたまその機に乗った搭乗客が犠牲になることが起こったり)するのです。(改行)こうした疑問から、じつは『これまで』と『これから』(過去と未来)との間には大きな裂け目があることがわかってくる。あらゆる科学的知識がそれを無理やり『つなごう』と企てていること、確率など高度な論理を使って、いかにそれを巧妙になしとげようとしても、いたるところぼろぼろと綻びていくのです。」(中島同書p139)

 中島は確率計算については、10年後に書いた『不在の哲学』(筑摩書房2016年2月10日で書いている。

「自然現象がことごとく自然因果性(自然法則に基づく物理学的因果関係)に従っていることを認めながらも、それをとくに運命と結びつけるときに偶然性や必然性という概念が入ってくるのである。まず包括的な全宇宙の摂理、あるいは神の意志を漠然と想定し、われわれ人間にとって偶然に見えることも、その超越的視点(神の視点)からはすっかり見通せるのであって、あらかじめ決定されているという意味で必然的なのだ。ここでも、偶然性や必然性の導入にあたっていわば『視点の欠如した客観的世界』に特権的視点を導入していることに注意すべきであろう。それが、すべてを見透すような視点であろうとも、やはり主観的視点であることに変わりはない。「われわれが人類の誕生や自分の誕生を天文学的に低い確率とみなすのは、一度限りの出来事にさまざまな『不在』の衣(出来事に属さない無意味な衣)を着せて天文学的に低い確率という意味を付与しているにすぎない。われわれは、この天文学的に低い確率を世界における出来事自身の客観的性質と思い込んでしまうのである。」(中島前掲書p342)そうした「偶然性とは、(中略)『私』が、あるいは(ある共同体において)『われわれ』が、それぞれ固有のパースペクティブ(視点)からさまざまな『相貌』を付与するときに成立するものなのであり、客観的出来事に対して与える主観的意味であり、出来事それ自身には属さないという意味で『不在』なのである。」(同p348)

 ここで不在という概念の意味は下記の通りである。

「言葉を学んだ有機体としてのわれわれは、<いま・ここ>に視点を定め現在(現存在)していながらも、<いま・ここ>で直接体験していること以外の膨大な出来事(それは今ここに現存在していないという意味で不在である)について語れるのである。だからこそ、『不在』は哲学の議論において、いたるところに出没して実在を支えるものとなっている。」(中島前掲書p10)

 偶然に見える出来事が、その後の私たちに大きな影響を及ぼす場合、その偶然は運命と言い換えられる。運命とは何か。

「自然現象がことごとく自然因果性(自然法則に基づく物理学的因果関係)に従っていることを認めながらも、それをとくに運命と結びつけるときに偶然性や必然性という概念が入ってくるのである。まず包括的な全宇宙の摂理、あるいは神の意志を漠然と想定し、われわれ人間にとって偶然に見えることも、その超越的視点(神の視点)からはすっかり見通せるのであって、あらかじめ決定されているという意味で必然的なのだ。ここでも、偶然性や必然性の導入にあたっていわば『視点の欠如した客観的世界』に特権的視点を導入していることに注意すべきであろう。それが、すべてを見透すような視点であろうとも、やはり主観的視点であることに変わりはない。(改行)偶然的世界観は運命論(必然的世界観)の裏返しであって、『すべてが偶然だ』ということは、『すべてが運命(必然)だ』という語り方と表裏一体の関係にある。超越的視点からは摂理=運命によってすべての出来事が起こっているのだが、人間の眼にはそのすべてが偶然に見えてしまうのだ。なぜ自分には次から次に禍が降りかかってくるのであろう?それが運命(必然)であることはわかっているが、自分には偶然にしか見えないのである。(改行)オイディプスのように、あるいはマクベスのように、個人の意志を超えた『より強大な意志』を認めるとき、彼はいかにその意志に逆らっても、その意志通りのことが実現してしまう。これは、先に触れた『運命論』であって、彼個人は見透すことができないという側面を強調すると偶然性という様相が前面に出てくるのに対して、より強大な超越的なものの意志という側面を強調すると、必然性という様相が前面に出てくるわけである。」(中島前掲書p351-p352)

 では、私たちに降りかかる禍(苦難)に対してどういう態度をとればよいのか。

 中島の回答はこうだ。あらゆる禍(苦難)に対して、これは「一回かぎりの」・「取り返しがつかない」ものであり、「このすべてを認めるほかないこと、そしてそれ以外のいかなる理屈も断固拒否すること」。(中島同書p154)。これは、すなわち、運命(必然)だったのだとか、すべては決定されていたとかいう理屈=人間を超える超自然的意志による決定はないと認めること、あるいは、「すべては偶然」という考えもとらないこと、である。中島によれば、運命論(決定論)も裏返しだという。つまり、人間を超える超自然的意志による決定を単に知りえないから、すべてが偶然に見える。見えざる神の決定(超自然的意思決定)は、人間の眼には恐ろしい偶然に見えるのだ。

 中島によれば、すべては必然でも偶然でもない、一回限りの出来事で、そのすべてを認めるほかはないという。しかし、そうは言っても、この本のあとがきには以下のように書いている。

「もうじき還暦(2006年当時-引用者)を迎える私の人生は、後悔と自責の連続でした。それは客観的にひどかったというより、(中略)私は、ある直観によって、子供のころから心ゆくまで後悔することを、自責の念をけっして潰さないことを心がけてきた。そのため、時折(いまでも)からだがもたなくなるんじゃないかと思うほど後悔し、このまま狂うんじゃないかと恐れるほど自責の念に駆られます。なぜ過去を変えることができないのか?この問いは、私にとって(いまでも)恐ろしく真剣な問いなのです。(改行)しかし、あまりにも後悔や自責にさいなまれて、もうすっかり生きていくのが厭になり、死んでしまおうかとも思いながらも、ふとさらに恐ろしい事実に気づく。それは、生まれてきたこと、それゆえもうじき死んでしまわなければならないことであり、この事実は、それについて私がいかなる後悔も自責もできないゆえに、いっそう残酷です。」(中島同書p178-p179)