預定説と人間(ウェーバーの宗教社会学から)その3

 イエスを教祖とする原始キリスト教は、有能なオルガナイザーであったパウロによって大教団に発展する。そのパウロは、新約聖書「ローマ人への手紙」第3章10-12)において、つぎのように書いている。

旧約聖書に、次のように書いてあるとおりです。『正しい人はいない、ひとりもいない。 悟りのある人はいない、神を求める人はいない、 すべての人が道を踏み外し、みな、間違った方向に進んで行った。正しいことをずっと行ってきた人はどこにもいない、ひとりもいない。 彼らののどは、開いた墓であり、彼らは、その舌で人を欺き、彼らのくちびるには、まむしの毒があり、 彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、地を流すのに早く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。彼らの目の前には、神に対する恐れがない。』

『 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神の裁きに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、代価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。」(同第3章21-22)

 ここで、パウロは「すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんら差別もない」と書いている。「信じる人」は罪にまみれていても、(律法を守っていても、守っていなくても)無条件に義とされる、と書いている。この論理がそのまま貫かれるならば、キリスト教はキリストを信じる全人類を救う宗教であることができる。

 ところが、「ローマ人への手紙」を読んでゆくと、奇妙な表現が出てくる。

「 神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。

  神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようとして、あらかじめ定めて下さった。」(同第8章28-29)

「また子供らが生まれもせず、善も悪もしない先に、神の撰びの計画が、わざによらず、召したかたによっておこなわれるために、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。」(同第9章11-12)

「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか。もし、神が怒りをあらわし、かつ、ご自分の力を知らせようと思われつつも、滅びることになっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、かつ、栄光にあずからせるために、あらかじめ用意されたあわれみの器にご自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。神は、このあわれみの器として、またわたしたちをも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。」(同9章21-24)

「それと同じように、今の時にも、恵みの撰びによって残された者がいる。しかし、恵みによるのであれば、もはや行いによるのではない。そうでないと、恵みはもはや恵みではなくなるからである。」(同第11章5-6)

 これこそ、「隠れたる神の預定説」ではないだろうか。神は予定(計画、撰びの計画、あわれみの器として、召される、恵みの撰び)によって「少数のものだけを選び、その人を求めて信ぜしむ」のだという予定説こそ、パウロは考えていたのではないだろうか。