入不二基義『現実性の問題』

 入不二基義は、『現実性の問題』の第9章「『無いのではなくて存在する』ではなく」において「ぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia」という形而上学的な問いについて次のように書いている。

「この形而上学的な問いを、私は『斜めから』眺めてみたい。ノージックやヴァン・インワーゲンのように『正面から』立ち向かうのではなく、その問いの媒介部分である『ではなくて』を疑問視したい。何かがあること(存在)と全く何もないこと(無)を『(一方)ではなくて(他方)』という排中律保存的な否定関係によって媒介することは、形而上学的な問いとして不徹底なのではないか。そういう疑念を持っているからである。

 私のその疑念が行き着く先をあらかじめ述べておくならば、次のようになる。『ある』こと(存在)と『ない』こと(無)を、それぞれ形而上学的に追い詰めた場合には、すなわち、もっとも強力な『ある』ともっとも強力な『ない』に至ったところで考察した場合には、『(ない)ではなくて(ある)』のように否定関係によって媒介できなくなるだろう。むしろ『(ある)かつ(ない)』という単一体を形成する矛盾になるか、あるいは(ある)と(ない)は端的に無関係になるか、のいずれかになるだろう。要するに、『存在と無』の関係について、私は次の1を退けて、2・3を受け入れる。そこまで形而上学的に追い詰めれば、かの形而上学的な問いは、(1に基づくので)生じることができなくなる。

1 排中律保存的な否定関係

2 単一体形成的な否定関係

3 端的に無関係」(入不二基義『現実性の問題』筑摩書房 2020年8月10日 p328-p329)

確かに排中律はAか非Aかという二択以外を排除する考えで、現実はAかつ非Aもありうる。また、あってもなくても無関係であることは多い。