キリスト教がローマ帝国によって国教になり、カトリック教会が成立した後、この預定説は否定され、キリスト教はキリストを信じる全人類を救済する宗教となった。
「神はその望むところに従ってわれらを滅亡に追いやるほど義であり給うと信ずるのはもっとも高き段階での信仰である。」
「キリストが死に給うたのもただ選ばれた者だけのためであり、...」(M・ルター「奴隷意志論」M・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」からの引用)
ジャン・カルヴァンも「キリスト教綱要」(1536)で、預定説(予定説)を説いた。
「ここで説かれているかれの教えで絶対に覚えなければいけないのが「予定説」というものです。予定の「予」は「あらかじめ」、「定」は「決定している」という意味。なにがあらかじめ決定しているのかというと、われわれ一人ひとりが天国にいけるかどうかが、あらかじめ決定してる、という意味です。
普通、救われるかどうかは信仰の深さ、日々の行い、そういったもので決まると考えられています。教会の教えにしたがい、信仰を守っていれば神様はきっと救ってくださる、というわけです。
ところが、カルヴァンは、そんなことはない!と言い切る。カルヴァンによれば神というのはものすごく超越的なもので、神がどういうふうに考えて、世界をどう動かすかなどということは、人間ごときが想像してわかるものではない。一所懸命信仰すれば救われるなどというのは人間の勝手な思いこみで、神は自分の偉大さを示すために人間の努力などの及ばないところで誰を救うかをあらかじめ決めているのだ、というのです。
あらかじめというのは、その人が生まれる前から決まっているということです。だから、神様に選ばれている人は、悪いことをさんざんしても、極端に言えば神を信じなくても救われる。選ばれていない人は、いくら教会に熱心に通い、祈り、善行を積んでも救われない、という理屈になる。人間には、神が何を規準に救う人救わない人を分けるのかはわからない。わからないことこそが神の偉大さなのです。
これは、恐ろしい考え方で、予定説が正しいとすれば、信仰しても信仰しなくても結果は同じ。だったら教会も神様も全部無視して好き勝手に生きればいいという考えになりそうでしょ。
カルヴァンは言うわけですよ。信者に向かって、「あなたが救われるかどうかは誰にもわからない。」「一所懸命神に祈っても無駄である」。こういう言葉でしゃべったかどうかはわかりませんが、内容はそういうことです。
でも、カルヴァンの教えが広く受け入れられた核心部分がこの予定説なのです。なぜでしょうか。
多分こういうことだったのではないか。
カルヴァンに誰が救われるかはわからないと言われたときに、ほとんどの人は自分が救われない人とは思わない。「自分は神に選ばれているに違いない」、もっと露骨に言えば「他の全部が地獄に堕ちても私だけは神に選ばれているはずだ」と考えたのです。自分だけは大丈夫というやつです。
そう考えると、次には「神様、私を選んでくれてありがとう」と思う。自分を選んでくれた神様におのずから感謝を捧げる気持ちになる。熱心に信仰するようになる、というわけです。一見厳しい教義ですが、はまった人にとってはエリート意識をくすぐられるのではないかと想像します。
ただ、信者は自分が選ばれている人間だと思うものの、何の証拠もない。少しでも自分が選ばれた人間である手がかりが欲しいと思うものです。」(金岡忍「世界史講義録」:http://www.geocities.jp/timeway/kougi-HYPERLINK "http://www.geocities.jp/timeway/kougi-60.html"60HYPERLINK "http://www.geocities.jp/timeway/kougi-60.html".html)
そして、カルヴァン派信徒たちは、、次のように現世を生きてゆくことになる。(小室直樹「日本人のための宗教原論、徳間書店、2000.6.30、同「天皇の原理」文芸春秋1993.6.15より)
1.救われている人の三つの条件
①救われている人はキリスト教を信仰している。(キリストの復活を信
じている)
②神の万能を信じ、予定説を信じている。
③カルヴァン派の教えを信じている。
①ひょっとしたら、自分は救われている人々の中に選ばれているに違い
ない。
②しかし、それは誰も知らないので、現世の中で<救いの確かさ>を求
め続けるしかない。(信仰の無限軌道)
③<救いの確かさ>は、まずは、「救われている人の三つの条件」を満
たし、予定説の逆因果律(善きことをするから神が救済すると予定した
のではなく、予定したから、善きことをする。同じく悪しきことをする
から神が予定しないのではなく、神が予定しないから、この人は悪しき
ことをするのだということ。)に従って「救いの側に予定されている」
から、善をなす人こそ自分である。ゆえに自分は善をなしている。これ
は自分が救われている確かな証だろうと考える。彼は決して悪をなさ
ぬ。救いの確かさを得るためにも。
④キリスト者(かつ救われている者)の義務は、現世において神の栄光
を増大させてしてゆくことであり、その手段は隣人愛の実践である。
隣人愛の実践とは、隣人たちが日常必要であるが、自らは生産してい
ないものを作るということである。カルヴァン派の信徒は商工業に従
事し、そうした職業労働に精励することによって利益(利潤)=富が
増してゆくとき、その富の大きさこそが、<救いの確かさ>に違いな
い。こうして、鋼鉄のようなピューリタン的商人(ウェーバー)が誕
生した。