苦難の理由
そもそも、人間諸個人は、偶然に生まれさせられ、理不尽に死んでしまうという最大の悲惨を身に被っているうえに、生きてゆく過程でさまざまな艱難辛苦を受ける。これは神の存否とは関係のない問題のはずであった。が、その意味を説明してほしいという生に根ざした欲求(ウエーバーの言葉)がある。その欲求に答えたものが、救済宗教である。これまでの世界史上には、3つ存在したと言われている。
マックス・ウェーバーは次のように書いている。
「当の個人にとって『いわれのない』悩みはあまりにも多かったし、また、『奴隷道徳』(支配者を否定する隷属者の価値基準に基づく道徳)からみてだけでなく、支配者層に固有な尺度から照らしてみても、いちばん成功するのはあまりにもしばしばもっとも善い人びとではなくて、『悪しき者』であった。そこで、個々人が前世で犯したひとつびとつの罪業(霊魂の輪廻のばあい)とか、三代、四代ののちの者にまで報いのくる先祖の罪過とか、また――いちばん原理的なかたちでは――一切の被造物の堕落そのものといったことが、苦難や不公正の理由として説かれ、そして、個々人が来世ではこの同じ世界でよりよい生活を営みうることへの期待(霊魂の輪廻)とか、子孫がそうした生活を営みうることへの期待(メシアの国)とか、彼岸におけるよりよい生活への期待(パラダイス)などが、誠命を補填する約束として説かれるようになった。神義論への根絶やしがたい要求から生まれてくる、神と世界についての形而上学的な観念が創り出すことのできたもののうち、運命と功績の不一致の根拠に関する問いに満足のいくような合理的な答えをあたえうる、そうした思想体系の姿をとったものはごく僅かーのちに見るように、全体として三つの思想体系だけーであった。すなわち、インドの業の教説(die indische Karmanlehre)、ゾロアスター教の二元論(den zarathustrischen Dualismus)、および、隠れたる神の預定説(das Prädestinationsdekret des Deus absconditus)、この三つであった。」(ウェーバー前掲書p48-p49)
古来、つまり、前近代の社会においては、こうした人間の生における「意のままならなさ」をうまく説明し、腑に落とす理屈を考え出したのは宗教であった。
ここから「苦難の神議論」が生じる。
痛みについて
どう考えても「痛み」とは物理的には存在しえないものだ。それは自我や意識、精神、私が物理的に存在しないという意味で存在しない。たとえば、私が指を怪我したとき、傷ついた指は皮膚が破れ、静脈の血管から血が噴き出るのであるが、細胞組織が破壊されてしまうだけで、そのことと私が「痛み」を感じることとは別物である。「脳が痛みを感じる」というのも正確ではない。私が感じるのであり、脳が感じるのではない。人間の大脳(前頭前野)は物(神経細胞の固まり-たんぱく質・脂肪・無機質)であり、そのどこを探しても、「私」という存在は見つからない。もし、私が脳のどこかに存在するとしたら、そこは、物以外のなにかが存在することになる。すると、その部分は物がないことになる。しかし、脳のどこを探しても、物以外のものを見つけることはできない。物以外のものがあるとすると、物理法則が変わるが、そういう観察はなかった。しかし、知覚やクオリア(感覚質、質感)、観念や意味の世界はある。物と心の二元論ではこのアポリア(哲学的難題)は解決できない。
(大森荘蔵「物としての人間と心としての人間」『科学時代の哲学』(『人間と社会』第2巻培風館1964年10月、『大森荘蔵著作集』第2巻p.110)
「今を生きる」とは何か
「未来を想像する能力を手に入れた人間は、『自分が死ぬ』という未来も想像できるようになってしまった。挙げ句の果ては、『人は死んだらどうなるのか?』とか、『人は何のために生まれてきたのか?』とか、考え出す。そして、『生きるのがつらい』とか、『死んで楽になりたい』とか、とても生き物とは思えないようなことを言い始める。そんな生き物は他にいない。そんなことを考えるのはヒトだけだ。すべての生き物は『今』を生きている。大切なのは『今』である。今、命があるのだから、その命を生きればいい。ただ、それだけのことである。」(稲垣栄洋『生き物の死にざま はかない命の物語』草思社 2020年7月14日 p216-p217)
稲垣は「すべての生き物は『今』を生きている。大切なのは『今』である。今、命があるのだから、その命を生きればいい。ただ、それだけのことである」と書いたが、この文章はとてもわかりにくい文章である。つまり「今を生きる」とはどんな生き方なのか。それがハッキリと明確になっていない。
そもそも「今」とは何だろうか。
稲垣は「今」について、過去と未来の間の「点」、絶えず過去から未来へ移動している今=現在時点のことを「今」と言っているのだろうか。つまり、「今」とは時間的にはリニア時間(直線時間)上を刻々と運動していく点としての「今」のことだろうか。では、「今」を生きるとはいかなることを意味しているのだろうか。
今という時間について考えると、「今を生きる」ことのわかりにくさが露呈する。
入不二基義『現実性の問題』
入不二基義は、『現実性の問題』の第9章「『無いのではなくて存在する』ではなく」において「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia」という形而上学的な問いについて次のように書いている。
「この形而上学的な問いを、私は『斜めから』眺めてみたい。ノージックやヴァン・インワーゲンのように『正面から』立ち向かうのではなく、その問いの媒介部分である『ではなくて』を疑問視したい。何かがあること(存在)と全く何もないこと(無)を『(一方)ではなくて(他方)』という排中律保存的な否定関係によって媒介することは、形而上学的な問いとして不徹底なのではないか。そういう疑念を持っているからである。
私のその疑念が行き着く先をあらかじめ述べておくならば、次のようになる。『ある』こと(存在)と『ない』こと(無)を、それぞれ形而上学的に追い詰めた場合には、すなわち、もっとも強力な『ある』ともっとも強力な『ない』に至ったところで考察した場合には、『(ない)ではなくて(ある)』のように否定関係によって媒介できなくなるだろう。むしろ『(ある)かつ(ない)』という単一体を形成する矛盾になるか、あるいは(ある)と(ない)は端的に無関係になるか、のいずれかになるだろう。要するに、『存在と無』の関係について、私は次の1を退けて、2・3を受け入れる。そこまで形而上学的に追い詰めれば、かの形而上学的な問いは、(1に基づくので)生じることができなくなる。
1 排中律保存的な否定関係
2 単一体形成的な否定関係
3 端的に無関係」(入不二基義『現実性の問題』筑摩書房 2020年8月10日 p328-p329)
確かに排中律はAか非Aかという二択以外を排除する考えで、現実はAかつ非Aもありうる。また、あってもなくても無関係であることは多い。
死に関するサルトルとハイデガー
サルトルは「私の死」というところで次のように書いている。
「それ(死)は、私のすべての可能性の無化として、それ自身もはや私の諸可能性の一部をなさないところの無化として、とらえられる。」(サルトル『存在と無』第三分冊 人文書院 昭和45年(1970年)12月20日p238)
「(主観的な個人としての私にとって)の死は、決して、人生にその意味を与えるところのものではない。むしろ反対に、死は、原理的に人生からあらゆる意味を除き去るところのものである。」(サルトル同書p244)では誰が死んだ人間に人生の意味を与えるのか。「死の存在そのものは、われわれ自身の人生において、他者の利益のために、われわれをそっくりそのまま他者のものたらしめる。死者であるとは、生者たちの餌食となることである。」サルトル同書p252)「死ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられることであり、自分の意味や、自分の勝利の意味そのものをまでも、他人から頂戴することである。」(サルトル同書p253)「死は、一つの偶然的な事実である。」(サルトル同書p256)「われわれが生まれたということは、不条理である。われわれが死ぬことも不条理である。」(サルトル同書p259)「まさにわれわれは、つねに、おまけに死ぬ」。(サルトル同書p262)
サルトルはハイデガーの『存在と時間』への反論として「私の死」論を書いている。サルトルはハイデガーの次のような文章への反発として上記の文章を書いたのではないかと思う。
「宿命的な現存在(人間存在)は、世界-内-存在として、本質上他者と共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起は、共生起であって、運命として規定されている。この運命でもってわれわれが表示するのは、共同体の、民族の生起なのである。運命が個々の宿命から合成されないのは、相互共存在が、幾人かの主体がいっしょになって出来したものだと解されえないのと、同様である。同一の世界の内での相互共存在において、また特定の諸可能性に向かっての決意性において、さまざまの宿命はもともとすでに導かれていたのである。」(ハイデガー『存在と時間』中央公論社 1998年3月25日 p593)
もちろん、個人の死は他有化(生者たちの餌食)される場合もあるが、世界-内-存在、歴史-内-存在(廣松渉の言葉)として生まれた現存在は、宿命(被投性、事実性、そこに偶然に産み落とされたこと)としてはじめから共存在(対他存在)として実存する。相互共存在として在る現存在は死によって現存在の生の意味を奪い去られるとは限らないのでないだろうか。
高崎将平は『そうしないこともありえたか?―自由論入門』
高崎将平は『そうしないこともありえたか?―自由論入門』(青土社 2022年9月28日)で自由論について英米の哲学者の議論を紹介している。
決定論や運命論と自由は両立するのか両立しないのか。この場合、自由とは、高崎が述べてきた「自由の他行為可能性モデル」における自由だろう。「私たちが自由であるとは、私たちに開かれた複数の選択肢のうちから、一つの行為を選び取ることである。ここで、複数の行為の選択肢が私たちに開かれていると言えるためには、それぞれの行為を私たちが行うことができるのでなければならない(行うことのできない行為は、そもそも私たちに開かれた選択肢とは呼べないだろう)。
その「自由の他行為可能性モデル」とは「行為者Sがする(した)行為Aが自由であるのは、行為者Sがそのときに行為Aとは別の行為をすることもできる(できた)ときに限る。(高崎同書p95)
フランクファート型事例は「自由の他行為可能性モデル」に対する疑義をもたらし、そこから「自由の源泉性モデル」という考え方が優勢となった。しかし、高崎は、「自由の他行為可能性モデル」のもう一つの疑義を考えたいという。それは、そもそも決定論や運命論と自由は両立しないのかという疑義である。自由と決定論が両立しないと論証するのは難しいらしい。カントは自由の因果性と自然の因果性の両立を論証しようとした。おそらくカントは自由と決定論の両立論者だったと思われる。
朴修範『カントの超越論的観念論についての考察』
朴修範は、カントの『純粋理性批判』における「触発」について書いている。
《.......現象が仮象ではなく現実的に与えられたものと見なされるためには対象によって主観が触発されるという事態が必要である。しかしながらそうだとすれば当然ながら主観を触発する対象が存在しなければならないことになろう。対象から触発されることによって初めて現象が与えられるゆえ、主観を触発する対象は主観と切り離された物自体でなければならないであろう。 しかしながら、私たちの受容性を物語っている「触発」という概念に関して、触発する対象を物自体と見なすことはできない。というのも既に確認されたように、物自体は論理的可能性としての消極的意味でのヌーメノンとして思考されうるにすぎず、知性的直観を前提しなければならない物自体に現象の存在根拠を帰することはできないからである。触発という事態のアポリアをヤコービは次のように語っている。「私は[物自体という] 前提なしにはその体系内に入ることができず、そしてあの前提を持ってはその体系内にとどまりえない」 。しかし前節でみたように、物自体をカント哲学の体系への入り口に位置づけることはできない。というのもカントの現象概念からは物自体に関してそれを肯定も否定もできなかったからである。それゆえもしもカント自身の体系には収まりえない物自体をまず前提した上で自らの体系を構築したのであれば、そのような体系ははじめから自己矛盾を内包することになってしまう。 このように触発という事態がもし触発する対象としての物自体の存在を要求するかぎり、 現象としての「或るもの」の存在根拠が主観と無関係な物自体の存在に基づくことになってしまう。ところがそのような見方は上で見たように、物自体に対するカントの立場そのものを否定することによってのみ生じうるのであり、その結果超越論的観念論はもはやカント自身が批判する「超越論的実在論」(A369)になってしまう。しかし触発概念は、現象の存在根拠としての自体的な存在を予め前提したものではなく、現象の存在に関してのみ持ち出されたものなのであろう。》(朴修範『カントの超越論的観念論についての考察 : 『純粋理 性批判』における認識と存在の関係』p31-p32)(PDF資料 九州大学学術情報リポジトリ)
「触発する対象を物自体と見なすことはできない」とすると、触発するもの、その源は何なのだろうか。朴は「私たち人間の受容性を表している触発という事態は、主観を触発する対象としての物自体の方からではなく、対象によって触発される主観の方から改めて考察されることによって明らかになると思われる。」(朴同書p33)という。
《触発の事態が現象の確固たる存在根拠でありうるのは触発の事態が次のようなことを意味しているからであろう。すなわち触発されるという事態は、存在と無関係なまだ触発されていない主観と、そしてそのような主観を触発する対象としての物自体とを最初から切り離されたものとして予め前提にした上での事態ではない。そうではなくて、触発とは既に触発されていて、現象としての「或るもの」の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方を表しているのである。
本章においては、カントの超越論的観念論に対する従来の一般的な解釈が観念論か実在論かという二者択一の立場をとらざるをえなかった理由が確認されている。すなわち、触発とは物自体を前提にした事態だと見なすことである。ところが触発の事態即物自体という連鎖を断ち切ることによって、カントの認識論は一般的な意味での観念論および実在論からは簡単に位置づけることができないのも明らかになっている。》(朴同書p37)
朴は「触発とは既に触発されていて、現象としての『或るもの』の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方を表しているのである」と結論づけるのであるが、その「或るもの」とはやはり「物自体」なのではないのか。「対象から触発されることによって初めて現象が与えられる」ときのその対象は「超越論的客観」あるいは「超越論的対象」とカントは呼んでいる。それは、触発という役目を担った物自体の別名である。
朴は《触発の事態が現象の確固たる存在根拠でありうるのは触発の事態が次のような ことを意味しているからであろう。すなわち触発されるという事態は、存在と無関係なまだ触発されていない主観と、そしてそのような主観を触発する対象としての物自体とを最初から切り離されたものとして予め前提にした上での事態ではない。そうではなくて、既に触発されていて、現象としての「或るもの」の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方を表しているのである。》と書いている。
「既に触発されていて、現象としての「或るもの」の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方」について、「既に触発されていて、現象としての『或るもの』」とは何だろうか。「既に触発されていて、現象としての『或るもの』の存在と常に結ばれている」のが「私たち人間」であるとはどういう意味だろうか。
また、「存在と無関係なまだ触発されていない主観と、そしてそのような主観を触発する対象としての物自体」を切り離されたものではないとすると、この二つは一体のものなのだろうか。朴は結論を持ち越しているように思われる。