痛みについて

 どう考えても「痛み」とは物理的には存在しえないものだ。それは自我や意識、精神、私が物理的に存在しないという意味で存在しない。たとえば、私が指を怪我したとき、傷ついた指は皮膚が破れ、静脈の血管から血が噴き出るのであるが、細胞組織が破壊されてしまうだけで、そのことと私が「痛み」を感じることとは別物である。「脳が痛みを感じる」というのも正確ではない。私が感じるのであり、脳が感じるのではない。人間の大脳(前頭前野)は物(神経細胞の固まり-たんぱく質・脂肪・無機質)であり、そのどこを探しても、「私」という存在は見つからない。もし、私が脳のどこかに存在するとしたら、そこは、物以外のなにかが存在することになる。すると、その部分は物がないことになる。しかし、脳のどこを探しても、物以外のものを見つけることはできない。物以外のものがあるとすると、物理法則が変わるが、そういう観察はなかった。しかし、知覚やクオリア(感覚質、質感)、観念や意味の世界はある。物と心の二元論ではこのアポリア(哲学的難題)は解決できない。

大森荘蔵「物としての人間と心としての人間」『科学時代の哲学』(『人間と社会』第2巻培風館1964年10月、『大森荘蔵著作集』第2巻p.110)