私・心・意識・身体(加藤茂『意識の現象学』から)

私は自分の意識、自分の心を考えるときがある。そして、「私の心(意識)はどうしてこうも、移り行き、定まらない、落ち着かないものなのだろうか」という思いを持つ。加藤茂はギュルヴィッチの『意識野』という未邦訳の本からか引用して書いている。

「どんな意識野でも外界の知覚、身体感覚、時間意識の三契機がつねに<周辺>を浮遊している」。(ギュルヴィッチ『意識野』pp.340-4、加藤茂『意識の現象学』世界書院1986年(昭和61年)7月13日p167)

 私の心(意識野)にやって来ては去ってゆくもの、浮遊しているというもの、それは、確かに「外界の知覚、身体感覚、時間意識」であると言われると、そうかもしれない。眼を開けている限り、私の知覚(視覚)は、外部を見る。正確に言うと、外部のものが見えている。また、私の身体感覚も常に私の心(意識野)にのぼって来る。胃袋の状態、のどの渇き、尿意・便意など。そして、何かをしているとき、「今何時だろう」という気持ちが起きて、時計を見る。「時間意識」は、それだけではなく、フッサールが指摘したように、過去把持と未来予持、過去の想起と未来の予期予想が含まれる。

「1905年の講義『内的時間意識の現象学』のフッサールは、「時の流れ」という比喩を使いつつも、時が決してただ流れ去っていくものとは捉えていなかった。今が瞬間的な今としてどんどん流れ去るのではなく、むしろ過去把持と未来予持という「地平」(X, 28, 43) を伴った現在として捉えられ、過去は単に過ぎ去ってしまうのではなく、むしろ「深み(Tiefe) 」(X, 28) へと沈澱していく。『心理学』のフッサールも、「瞬間的な知覚はすべて、濃淡のある過去把持と未来予持の地平の一つの連続体の核位相であり、……もはや生き生きしていない過去の深みへと沈んだものが再び浮上し、想起として再び直観的になる」(IX, 202) と述べている。われわれの経験はこのような「深さの次元」(IX, 30)をもっており、さしあたりは「見えない」このような次元を明るみにもたらし、沈澱しているものを発掘する」。

浜渦辰二『見えないものの現象学のために』西日本哲学会編『西日本哲学年報』第5号(1997年10月発行)

http://www.let.osaka-u.ac.jp/~cpshama/gyouseki/unsicht.html

 加藤はこう書いている。「秋風に散っている落葉を見て、その知覚とだぶって、”人生の無常とはかなさ”を想念し、さらにその表象に伴って、亡き母を思い出す」。「連想の輪を次々とつないでいって、意識と意識とをお互いに連関づける。それは意識生活の関係と秩序の原理である。」(加藤前掲書p169)

 ギュルヴィッチが意識野の<周辺>として指摘した三つのものが私の身体の感官から上がって来るが、では<核>(中心)にあるものは何か。それは、多分、生命維持のための営為であろう。食事や睡眠その他の生命維持のための活動は、人が生まれ、育てられている家族・社会から訓練され、覚えた活動なのだが、その活動は自律的に遂行できるようになるまで、他律的に行われる。「物心がつく」ようになると、私は意識野の中の中心にその活動を置くことになる。そして、もう少し大きくなると、「私とは、心とは、魂とは」という問いを持つ人間がごくわずかではあるが、出てくる。

 <核>(中心)は常に「飲み、食べ、楽しむ」という人間の本能的な生活に沿って進むのだろう。しかし、意識野の<周辺>には絶えずやって来るものがある。

安定することのない人間の魂は、たえまなく未来にむかってゆき、可能的な現在をすぐさま踏み越え、瞬間ごとに過去を背後に残す。この不安定性と無常性は、我々の時間感覚を基礎づけるだけでなく、この世の生というもの ( saeculum ) が根をおろしている必須の基盤自体を傷つけ、損なうものである。我々の具体的時間が押しとどめられることなく動いていくのは、魂のこの不安定性のためである。我々が永遠性にまったく関与していない限り、関与していないというそのことによって我々自身がこの時間、過去から非実在的な現在を経て未来へ動いていくこの時間なのだ。」」(ランツバーク『死の経験』紀伊国屋書店1977年11月30日p98)

 「この不安定性と無常性は、我々の時間感覚を基礎づけるだけでなく、この世の生というもの ( saeculum ) が根をおろしている必須の基盤自体を傷つけ、損なうものである」というが、そうだろうか。「この世の生というもの ( saeculum ) が根をおろしている必須の基盤」とは何か。ランツバークは「人間の可死性は、我々のもっとも内的な固有本質に属し、罪の結果およびその報いとして我々につきまとうことを決してやめないあの不安定性という根底から生じる」と書いているように、この世の生が根をおろしている必須の基盤とは、この世の生から死後の生へと続く「永遠性」に関与することなのだ。それは「その本質において神と同一である」から、永遠性を求めることが、本当のキリスト教徒の時間」意識であるべきだという。それは「聖アウグスティヌスが解釈しているように、神を求めることによって自分の存在を求める魂の時間」意識だという。

 しかし、この信仰の時間意識がいかに強くとも、信仰心の篤い人間にも不信仰の人間にも、死は平等に訪れる。その死の向こう側に何があるのかは誰もわからない。

心理主義(心理学至上主義)の根本態度

ヴィクトール・フランクルは書いている。

「それ(心理主義)は価値を貶める」。つまり、「心理的行動過程(それは心理主義によってよく評価されている)の精神的内容の価値を貶めようとする」。「心理主義は常に精神的なものの仮面をはごうとし、無理やりに暴露しようとし、常に本質的でない神経症的な、あるいは文化病理学的な動機をさがすのである。」(ヴィクトール・フランクル『死と愛』みすず書房昭和36年4月15日p26)

 「宗教的、芸術的、また学問的領域における妥当性の問題」、つまり宗教の教義や芸術の造形物、学問的な著述などの「内容的領域」を評価するのではなく(心理学者にはそうした能力はない)、そうした文化領域への逃避だとする。芸術は、どのような素晴らしい作品であれ、芸術家の「生活、あるいは愛からの逃避に『他ならない』し」、宗教は、それがどのような宗教教義であれ、結局は、「自然の暴力に対する原始人の恐怖」から出来上がったものであり、「精神的な創造一般」についても、創造した人間の性欲を昇華させたものであり、「単に劣等感の補償、あるいは自己維持傾向の手段」に過ぎないという。すると、ゲーテだって、「本来は一人の神経症者に過ぎなかった」というようなことを平然とのたまうのだ。

「外面的にあまり魅力のない人間が、著しく美しい人間にとってはいわば自然に手に入るものを、無理に求めようとすることは、心理学的にもとより理解できることである。醜い人間は、彼がそれを愛の生活において重く見れば見る程、それだけ一層愛の生活を過大評価するであろう。然しながら愛は実際的には生命を意味で充たす一つの可能な機会ではあるが、しかし必ずしも最大の機会ではないのである。もし生命の意味が愛の幸福を体験するか否かにかかっていたならば、彼はその外貌を悲しみ、その生命を貧しいとよびうるであろう。しかし実際はそうではないのであって、生命は無限に豊かな価値を実現する機会をもっているのであるのであり、それはわれわれが創造的な価値実現の優位ということを考えるだけで明らかである。愛し愛されない人間もしたがって彼の生命を最高に有意義に形成しうるのである。」フランクル同書p156-p157)

 

意識の統合情報理論

「この理論(意識の統合情報理論)によると、蜘蛛の巣のように複雑なネットワークを持つシステムならどんなものにも意識が宿り得ます。生物だけでなく、ロボット、インターネットなど無生物でも意識を持ち得るというのです。」(立花隆『死はこわくない』文藝春秋社2018年7月10日p46-p47)

 それなら、人間の脳の「側頭葉というのは、いろんな情報が統合されるところなんです。感覚、知覚、記憶、情動などの中枢と結びついて、それをつなぎ合わせるところ」(メルヴィン・モース)(立花隆臨死体験』下文春文庫2000年3月10日p399-p400)なので、意識が生まれるのは側頭葉ということになる。では、前頭葉前頭前野)には意識はないのか。

 こうした仮説はあくまで仮説だ。この理論の言おうとしていることは、生命=意識(意識があるところに生命があるから)は作ることができると言っていることと同じではないか。

自力型人間と他力型人間

 死ぬときの苦しみは、病気が招く痛みとともに、死の恐怖による苦しみもある。「長い苦しい病い―—それは死の恐怖のことです。そしてセスプロンはこう言っています。ある人にとって死は『虚無と取っ組み合う』ことであり、別の人たちにとっては自己と対決することであり、また別の人には神のうちに沈むことである。二つの考え方があるんです。禅などのように自分の力だけで悟りを開き、死を迎えるのは自己と対決するということでしょう。しかしそこには虚無と取っ組み合うものが隠れていないか。たとえば、浄土宗とか浄土真宗のように阿弥陀さんにすがって成仏するというのもあります。人間にも自力型と他力型とあるように。それに宗教には自力の要素と他力の要素とが混ざり合っています。自力信仰は死に方を大事にするでしょうが、他力信仰は死に方をそれほど問題にしないと思うのです。」(遠藤周作『死について考える』光文社1996年11月20日p45)

 遠藤は死の恐怖の克服の仕方には二通りあると言っている。自力型の人はまず、死というものは虚無になることだから、その無になる恐怖を克服する方法を模索する。「虚無と取っ組み合う」とは無になる恐怖と闘うことだ。仏教の世界観は究極的には涅槃の状態に入ることが理想である。涅槃とは輪廻転生から解放されて永遠の休息に入ることだという。これは永眠と同義であり、無と同義である。仏教は科学と両立できると言われるのは死後の世界を無であると黙示的に示しているからであるが、この永遠の休息(永眠)=無が理想という宗教は仏教だけだ。そして、仏教は自力型と他力型という二つの教えを持っている。達人向けの自力型教義と一般人向けの他力型教義である。他力型の教義の典型は大乗仏教から派生した浄土宗や浄土真宗の教えだろう。

 キリスト教の教義には本来死後の世界が無であるという考えはない。アフターライフの神の国の概念があるだけだ。しかし、面白いことに救済へと至る方法に自力型と他力型の2種類がある。自力型とはプロテスタント諸教派であり、他力型とはカトリックである。

 自力型の教義の典型はカルヴァンの予定説である。

「予定説に従えば、その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。これは、条件的救いに対し、無条件的救いと呼ばれる。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵である。」(出典下記Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E5%AE%9A%E8%AA%AC

 カルヴァン派の信徒は、たった一人で神と対決せざるを得ない。そして、造物主である神が自分を救済してくれるのかどうかは全くわからない。予定説とは「永遠の昔(神が被造物を創造したとき)から、救われている者と救われていない者とがすでに決定されている。永遠に神の国に住むことができる者として予定されている者と永遠に滅びを予定されている者とがいる」というものなので、誰が救われており、誰が救われていないのかは被造物の人間には永遠に計り知れないのだ、とされる。つまり、神が創った陶芸品(=人間)の中で、作品として残されるものと、失敗作として割られ、廃棄されるものの差もその理由も、陶芸品には永遠に知られえないのと同じだというわけだ。

 これほど恐ろしい思想はない。そんな思想が普通の人々に受容されるわけがない、はずだった。

 ところが、カルヴァン派信徒たちは、下記のような解釈をいろいろと考え尽くしてひねり出した。(小室直樹『日本人のための宗教原論』徳間書店2000年6月30日、同『天皇の原理』文芸春秋1993年6月15日より)

1.救われている人の三つの条件

 ①救われている人はキリスト教を信仰している(キリストの復活を信じている)

 ②神の万能を信じ、予定説を信じている

 ③カルヴァン派の教えを信じている

2.予定説を受容したカルヴァン派信徒たちの心理メカニズム

    ①ひょっとしたら、自分は救われている人々の中に選ばれているに違いない

 ②しかし、それは誰も知らないので、現世の中で<救いの確かさ>を求め続ける  

  しかない(信仰の無限軌道)

 ③<救いの確かさ>は、まずは、「救われている人の三つの条件」を満たし、予定 説の逆因果律(善きことをするから神が救済すると予定したのではなく、予定したか ら、善きことをする。同じく悪しきことをするから神が予定しないのではなく、神が 予定しないから、この人は悪しきことをするのだということ。)に従って「救いの側 に予定されている」から、善をなす人こそ自分である。ゆえに自分は善をなしている。これは自分が救われている確かな証だろうと考える。彼は決して悪をなさ ぬ。救いの確かさを得るためにも。

 ④キリスト者(かつ救われている者)の義務は、現世において神の栄光 を増大させ てしてゆくことであり、その手段は隣人愛の実践である。 隣人愛の実践とは、隣人た ちが日常必要であるが、自らは生産していないものを作るということである。カル  ヴァン派の信徒は商工業に従事し、そうした職業労働に精励することによって利益(利潤)=富が 増してゆくとき、その富の大きさこそが、<救いの確かさ>に違いな いと考えた。こうして、鋼鉄のようなピューリタン的商人(ウェーバー)が誕 生した。

 

 カルヴァン派信徒の心の内側での「救いの確かさ」の自己確認は結局、遠藤が指摘した「虚無と取っ組み合う」行為に似て、たった一人で遂行せざるを得ない。自力型の宗教なのである。なぜなら、誰も自分が救われているのか救われていないのか教えてくれないのだから。そして、<救いの確かさ>の証としての富が蓄積されていくとともに、容易に内面の信仰は形骸化し、救われている者の三条件を外形的に満たすことで、社会の富裕層としてのエリート意識だけが前面に現れる。

 

 一方、他力型のカトリック教会にあっては「予定説はトリエント公会議で異端として排斥された。」(同Wikipedia)という。カトリック教会は、修道院において徳のある修道僧が徳を積み、その徳を免罪符として一般の衆生に販売するという方法を考えだした。その免罪符を買えば、永遠に滅びに予定された衆生も救済されるということにしたのである。

幸福の神義論

価値・意味・理念・理想・大義、そうした価値体系一般について、それは存在するのかしないのか、中島義道ニーチェのように「人生に生きる価値はない」という哲学者の本からいろいろと学んでいる私としては、ケーガンの次のような文章に出会うと困惑してしまう。

「私自身はとても価値のある人生を送りながら、自分のオフィスで、健康に対する何の心配もなく、ゆったりと机に向かってこれらの問題(この文章は自殺論の中の章なので、自殺をめぐる諸問題である)について冷静に書き綴っている。」(シェリー・ケーガン『「死」とは何か』文響社2018年10月10日p331)ケーガンは、自分の人生において「人生における良いことのうちでも際立って価値」が高い「有意義な実績」を挙げるという人生の大きな目標を実現・達成したと自認している。今のケーガンはまさに大小の人生における数々の良いことに囲まれて、幸福に生活していると自認しているように見える。

 ウェーバーは書いている。 

「幸福な人間は、自分が幸福を得ているという事実だけではなかなか満足しないものである。それ以上に彼は、自分が幸福であることの正当性をも要求するようになる。自分はその幸福に『値する』、なによりも、他人と比較して自分こそがその幸福に値する人間だとの確信が得たくなる。したがってまた、彼は、自分より幸福でない者が、自分と同じだけの幸福をもっていないのは、やはりその人にふさわしい状態にあるにすぎない、そう考えることができれば、と願うようになる。自己の幸福を『正当な』ものたらしめようと欲するのである。もし『幸福』という一般的な表現をもって名誉・権力・財産・快楽などのあらゆる諸財を意味せしめるとすれば、この幸福の正当化ということこそ、いっさいの支配者・有産者・勝利者・健康な人間、つまり幸福な人々の外的ならびに内的な利害関心のために宗教が果たさなければならなかった正当化という仕事のもっとも一般的な形式であり、これが幸福の神義論と呼ばれるものである。この幸福の神義論は、人間の牢固として抜きがたい(『パリサイ的な)』欲求に根拠をもっているから、その影響にしばしば十分な注意が払われていないとしても、その意味は容易に理解することができるはずである。」(マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』みすず書房1972年10月25日p41-p42)

 

 ここで、「宗教」という言葉は、ケーガンなどの米国の哲学と読み替えることができる。また、「パリサイ的」とは護教論的という意味である。なんでもこじつけて、自分に有利なもっともらしい説明をこしらえる態度のことである。「幸福な人々の外的ならびに内的な利害関心のために」作り上げられた理念による世界観が「幸福の神義論」であって、こうした理念は利害関心の方向を転轍する能力を始めから喪失しているものなのである。



偶然と必然 

すべてを見透す、超自然的意志などない、かもしれない。私は、科学的認識・知識としては同意する。しかし、巷では手相占いが盛んで、四柱推命などの占いの本が売れている。中島からすると、超自然的な意志などないし、私たちの人生はあらかじめ決定されているわけではない。それらは嘘っぱちだと言うだろう。だが、人は予想もしえない、理由もわからない禍を被ってしまったら、どうなるのか。「救われたい、苦しみから逃れたい、楽になりたい」という欲望によって「運命論という決定論」に縋りつく。「すべてはこうなるように決定されていた、そうなる運命だった」という思いは、苦しい・切ない・つらいという感情、後悔と自責の感情を打ち消すのではなく、そのまま残しながら、傷ついた心を癒すという。また「未来における禍に対しても」防護する盾となるともいう。(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p151)そういう機序(メカニズム)を知りながら、なぜ中島は運命論という決定論を拒絶するのか。普通の人は科学的客観的認識や知識に基づいて「これは単なる偶然だ」と思い、一時的に「これは運命だったんだな」と思う。この偶然と運命(必然、決定論)を行ったり来たりすることをなぜ責めずにいられないのだろうか。それは、理性・論理を優先するからだ。中島には一神教原理主義の雰囲気がある。理詰めでどこまでも追求する。彼なら、「人間の手のしわで当人の性格や将来がわかるどのような根拠があるのか、科学的な証拠があるのか」と言うだろう。超自然的な秩序や意志の実在を証拠立てる何ものもない。

 しかしながら、日本には大昔から、加地伸行が指摘する「一知一能の神」(一つの知識、一つの能力しかもたない神・全知全能の神の反対語)が信仰されていた。受験となれば学業の神様を祀る大宰府天満宮、安産祈願なら東京水天宮。12月24日から翌日までの一日半限定のイエス・キリストを祀るクリスマス。子どもがクリスチャンの高校に入学すれば、3年間限定でクリスチャンになるという。今現在と未来(これから)の間の「大きな裂け目」に向い未来の厄災を避けようと願うこと。これからの出来事を何も知りえない庶民は、神々などいないかもしれないと心の底で思ってはいても、切ない願いをぶつけるのだ。

 現実世界の2つの見方

「われわれは一方では、『同一のもの』を抉り出しながら、他方では、それでは吸収されない『異質なもの』を感じています。すなわち、現実世界を

(A)『異質なものの絶対的に一回的な継起』として

(B)『同一なものの繰り返し』として

というお互いに融合しえない根源的な二重の視点から見ているのです。」(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p127)

 (A)の世界とは「究極まで行くと言語による表現は不可能ですが、われわれは日々新しいことが生じている(日々新しいことが湧き出している)、刻々と新しい体験をしている」(中島同書p127-p128)世界である。この世界が実感されるときは、「自分にとって実存を突き刺すほどの衝撃的な禍や事故」、「一回かぎりのかけがえのない事故」(中島同書p128)のときである。ただ、この世界は「いかなる名指しもできない世界」であり、「この事故」という言い方をしたとたんに「同一のもの」(事故という観念)に「からめ取られ」てしまう。(中島同書p129)「時折魂を揺さぶられる出来事に遭遇」することで(A)の世界を垣間見る。「だが、『生きていかねばならない!』とという叫びとともに、以前のように『同一のもの』を計算する生活に舞い戻る」。(中島同書p129)「人生のみならずこの世で起こる現象のすべてにわたって、刻一刻ほとんど無限と言っていいほど新しいことが生じている。」(中島同書p131)毎日の日常は「繰り返し」=「同一のもの」と思われているが、実は、一日として「同一のもの」はない。常に、いつも異なっている。毎日の通勤一つとっても、仔細に見ればその態様は無限に異なっている。「だが、われわれは普通こうした(たとえば)歩き方の無限に近い差異を重要なものとして認めない。そして、それらの差異を『歩くこと』という『一つの』観念のうちに吸収してしまう。こうして、言葉を学ぶとは、恐るべき多様な差異を同一の観念へとまとめあげる仕方を学ぶことであり、いったん言葉を学んでしまうと、もう世界はそういうさまざまな『同一なもの』の繰り返しとして見えてきてしまいます。」(中島同書p131-p132)

 「時々刻々起こることは」は、「ほとんど確率がゼロ」、しかも「毎日のように頻繁に起こっている」。(中島同書p140)それが世界の実相(「(A)異質なものの一回かぎりの継起」の世界)なのだ。

 しかし、私たちは(B)『同一なものの繰り返し』としての世界を創り上げた。

「そこ(そうした異質のものの世界)にさまざまな関心から『同一のもの』を入れ込んで、世界を同一のものの繰り返しとして見なおす。そして、その最も基本的な『同一のもの』こそ、『これまで』と『これから』とを『同一の時間』における二つの様相とみなすことです。こうした前提で世界について知ること、それが世界を認識することであり、科学的認識はその最も洗練されたものです。そして(中略)『偶然』もまた世界に対する認識の一つなのですから『同一のもの』をもち込むことによってはじめて成立している」。(中島同書p141)(台風の例)「偶然とは(中略)世界を『同一のもの』の繰り返しと見る態度のとどまることによって生ずる。とすれば、偶然から脱却したければ、(A)に移行すればいいはずです。われわれが完全に(A)を自覚すれば、そこには『同一のもの』は生じていない。森羅万象まさに現にあるようにあるだけであって、必然も偶然もない。それでオワリ。」(中島同書p142)しかし、それは「難しい」。なぜなら、「『同一のもの』のものを脱した固有の体験が開かれるだけであり、それを語る事もできないからです。つまり、他人とのコミュニケーションをあきらめざるをえないばかりか、みずからもいかなる判断もできなくなる。あらゆる認識を拒否し、認識に必要なあらゆる言語使用を、いやそれ以前の言語による観念形成をも拒否しなければならない。」(中島同書p142)

「このすべてを認めるほかないこと、そしてそれ以外のいかなる理屈も断固拒否すること」(中島同書p154)中島説、これに類似の説にニーチェの「運命愛」がある。「すべてがまさに偶然であることをそのまま認めよということ。たしかにすべては何の原因も何の目的も、何の意味もなく起こっている。だが、そのことをそのまま承認すること。現に起こったこと、起こること、起こるであろうことに対して、常に”Ja”と肯定すること。それが(ニーチェの)運命愛」(中島同書p149)だ。