高崎将平は『そうしないこともありえたか?―自由論入門』

高崎将平は『そうしないこともありえたか?―自由論入門』(青土社 2022年9月28日)で自由論について英米の哲学者の議論を紹介している。 

 決定論や運命論と自由は両立するのか両立しないのか。この場合、自由とは、高崎が述べてきた「自由の他行為可能性モデル」における自由だろう。「私たちが自由であるとは、私たちに開かれた複数の選択肢のうちから、一つの行為を選び取ることである。ここで、複数の行為の選択肢が私たちに開かれていると言えるためには、それぞれの行為を私たちが行うことができるのでなければならない(行うことのできない行為は、そもそも私たちに開かれた選択肢とは呼べないだろう)。

 その「自由の他行為可能性モデル」とは「行為者Sがする(した)行為Aが自由であるのは、行為者Sがそのときに行為Aとは別の行為をすることもできる(できた)ときに限る。(高崎同書p95)

 フランクファート型事例は「自由の他行為可能性モデル」に対する疑義をもたらし、そこから「自由の源泉性モデル」という考え方が優勢となった。しかし、高崎は、「自由の他行為可能性モデル」のもう一つの疑義を考えたいという。それは、そもそも決定論や運命論と自由は両立しないのかという疑義である。自由と決定論が両立しないと論証するのは難しいらしい。カントは自由の因果性と自然の因果性の両立を論証しようとした。おそらくカントは自由と決定論の両立論者だったと思われる。