預定説と人間(ウェーバーの宗教社会学から)その1

ライプニッツは「モナドジー 形而上学叙説」中央公論社2005年1月10日

の中で、すべての現象には理由があると書いた。これは「充足理由律」というものである。カントもこれは正しいと「純粋理性批判」に書いている。それはこういうことだ。

「現に生起する現象が一見いかに不可思議で理不尽に見えても、そう見えるのはわれわれの眼や思考が限られているからであって、すべての出来事はわれわれには知られえない無数の理由によって起こる。」(中島義道「後悔と自責の哲学」河出書房新社2006年4月30日からの引用)

 アウグスティヌス(古代キリスト教神学者、哲学者、説教者、ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人)は「すべて存在するものは善いものである」と言った。アウグスティヌスから続く欧州の中世スコラ神学の系譜を踏襲するライプニッツは、当然弁神論の立場からこう言ったのだが、ニーチェが出て、「神は死んだ」とされてから、大方の現代人は、単純に、”完全なる「神が善意によって選び、力によって生み出す」”(ライプニッツ同書p.21)この善なる世界というものを信じることはできない。

 しかしながら、現実に起こることがいかに悲惨であろうと、それは最善の世界なのだというオプティミズムは、なぜかしら、心の奥底にある情念を揺さぶる思想なのだ。なぜなら、人間は意味・意義を求めて止まない存在だからだ。(自然の威力を”天罰”と呼びたいのが人間である。)

 そして、歴史を学び、その因果の連鎖を辿るとき、その原因(無数の原因)を知ることが不可能だと悟るからである。

 今までのあらゆる世界の歴史を見てみると、目的論的因果連関(われわれの選択と意志とそれらに基づく行為の因果連関)と客観的因果連関(実際の歴史的事実の因果連関)とは常に乖離するのが常であった。なぜ乖離するのかと言えば、この 充足理由律 と微小表象(人間の認識能力を超える微小な原因が連続して作用することで生起する)があるからだと思われる。これは、神の存否とは関係のない問題のはずであった。

 しかしながら、ここから「苦難の神議論」が生じる。人間諸個人は、偶然に生まれさせられ、理不尽に死んでしまうという最大の悲惨に重ねて、生きてゆく過程でさまざまな艱難辛苦を受けるが、その意味を説明してほしいという生に根ざした欲求(ウエーバーの言葉)がある。

 その欲求に答えたものが、救済宗教で、これまでの世界史上には、3つのみ(”nur drei”)存在したと言われている。(M・ウェーバー「宗教社会学論集」S.246-247 邦訳「宗教社会学論選」みすず書房1975年10月25日p48-49)