ほとんどすべてのアポリア(哲学的難問)の鍵は『可能性』と『現実性』をめぐってである

 

「ほとんどすべてのアポリア(哲学的難問)の鍵は『可能性』と『現実性』をめぐってであるように思われる。われわれが言語を学ぶと、世界をまず可能性の相で眺め、次にその一部が現実化したとみなすのだ。こうすると、地球が生まれたのも、人類が生まれたのも、私が生まれたのも、『奇跡』となってしまう。確率的にはほとんどゼロに近いほどのことが実現したのであるから。だが、客観的時間は一つしかなく、そこで実現されたのはすべて一度限りのことなのだから、この計算は無意味であるとも言える。しかし、ここに確率を適用することが無意味であろうと地球や人類や自分の誕生が奇跡的に思われる(思い込みたい?)という事実は消え去りはしない。」(中島義道『七〇歳の絶望』KADOKAWA 2017年11月10日 p92-p93)

 言語を学ぶと、言語を繋げて一つのまとまりのある命題を作ることが可能になる。こうして作られた諸命題の中に因果連関の命題が生まれる。因果の繋がりは、単なる一つの事実連関でしかない、しかし、そこにおける原因それだけでなく、他の考えられるあらゆる原因の可能性の集合を言語を学んだ人間は発見する。その可能な集合群の一つがある事象の現実的な原因であったならば、結果はどうなるかという、可能としての因果連関の命題が作られる。実際には、一つのある原因が一つのある結果をなして現実の事実連関があったにすぎないにもかかわらず、可能的な原因の中から一つの原因が選択されて、「確率的にはほとんどゼロに近いほどのことが実現した」と胸躍らせるのが言語を学んだ有機体としての人間の習い性だという。

 ここで、そうした一連の因果の連鎖を「奇跡」だという立場が一つ。

 もう一つが、「適合的因果連関」という言葉を作って、可能性の中の現実化した原因をことさらにクローズアップして、一つの「必然性の因果連関」の構図を作り上げるという、必然論を作りたがる人間も出てくる。そして、その選ばれた「適合的」原因を、ことさらにすばらしいと持ち上げる人間が出てくる。