朴修範『カントの超越論的観念論についての考察』

 朴修範は、カントの『純粋理性批判』における「触発」について書いている。

《.......現象が仮象ではなく現実的に与えられたものと見なされるためには対象によって主観が触発されるという事態が必要である。しかしながらそうだとすれば当然ながら主観を触発する対象が存在しなければならないことになろう。対象から触発されることによって初めて現象が与えられるゆえ、主観を触発する対象は主観と切り離された物自体でなければならないであろう。  しかしながら、私たちの受容性を物語っている「触発」という概念に関して、触発する対象を物自体と見なすことはできない。というのも既に確認されたように、物自体は論理的可能性としての消極的意味でのヌーメノンとして思考されうるにすぎず、知性的直観を前提しなければならない物自体に現象の存在根拠を帰することはできないからである。触発という事態のアポリアヤコービは次のように語っている。「私は[物自体という] 前提なしにはその体系内に入ることができず、そしてあの前提を持ってはその体系内にとどまりえない」 。しかし前節でみたように、物自体をカント哲学の体系への入り口に位置づけることはできない。というのもカントの現象概念からは物自体に関してそれを肯定も否定もできなかったからである。それゆえもしもカント自身の体系には収まりえない物自体をまず前提した上で自らの体系を構築したのであれば、そのような体系ははじめから自己矛盾を内包することになってしまう。 このように触発という事態がもし触発する対象としての物自体の存在を要求するかぎり、 現象としての「或るもの」の存在根拠が主観と無関係な物自体の存在に基づくことになってしまう。ところがそのような見方は上で見たように、物自体に対するカントの立場そのものを否定することによってのみ生じうるのであり、その結果超越論的観念論はもはやカント自身が批判する「超越論的実在論」(A369)になってしまう。しかし触発概念は、現象の存在根拠としての自体的な存在を予め前提したものではなく、現象の存在に関してのみ持ち出されたものなのであろう。》(朴修範『カントの超越論的観念論についての考察 : 『純粋理 性批判』における認識と存在の関係』p31-p32)(PDF資料 九州大学学術情報リポジトリ

「触発する対象を物自体と見なすことはできない」とすると、触発するもの、その源は何なのだろうか。朴は「私たち人間の受容性を表している触発という事態は、主観を触発する対象としての物自体の方からではなく、対象によって触発される主観の方から改めて考察されることによって明らかになると思われる。」(朴同書p33)という。

《触発の事態が現象の確固たる存在根拠でありうるのは触発の事態が次のようなことを意味しているからであろう。すなわち触発されるという事態は、存在と無関係なまだ触発されていない主観と、そしてそのような主観を触発する対象としての物自体とを最初から切り離されたものとして予め前提にした上での事態ではない。そうではなくて、触発とは既に触発されていて、現象としての「或るもの」の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方を表しているのである。

 本章においては、カントの超越論的観念論に対する従来の一般的な解釈が観念論か実在論かという二者択一の立場をとらざるをえなかった理由が確認されている。すなわち、触発とは物自体を前提にした事態だと見なすことである。ところが触発の事態即物自体という連鎖を断ち切ることによって、カントの認識論は一般的な意味での観念論および実在論からは簡単に位置づけることができないのも明らかになっている。》(朴同書p37)

 朴は「触発とは既に触発されていて、現象としての『或るもの』の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方を表しているのである」と結論づけるのであるが、その「或るもの」とはやはり「物自体」なのではないのか。「対象から触発されることによって初めて現象が与えられる」ときのその対象は「超越論的客観」あるいは「超越論的対象」とカントは呼んでいる。それは、触発という役目を担った物自体の別名である。

 朴は《触発の事態が現象の確固たる存在根拠でありうるのは触発の事態が次のような ことを意味しているからであろう。すなわち触発されるという事態は、存在と無関係なまだ触発されていない主観と、そしてそのような主観を触発する対象としての物自体とを最初から切り離されたものとして予め前提にした上での事態ではない。そうではなくて、既に触発されていて、現象としての「或るもの」の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方を表しているのである。》と書いている。

「既に触発されていて、現象としての「或るもの」の存在と常に結ばれているという私たち人間の存在に対する受容的な在り方」について、「既に触発されていて、現象としての『或るもの』」とは何だろうか。「既に触発されていて、現象としての『或るもの』の存在と常に結ばれている」のが「私たち人間」であるとはどういう意味だろうか。

 また、「存在と無関係なまだ触発されていない主観と、そしてそのような主観を触発する対象としての物自体」を切り離されたものではないとすると、この二つは一体のものなのだろうか。朴は結論を持ち越しているように思われる。