「人生はまともでない」か

 

「人生はまともじゃない。ひとは断りなしになかに入ってきて、行く先もわからずに出て行く。しかもそこにいるときは何をしているかわかっていない。」(作者不詳)

上記の文章を、その真意を損なわないように読み砕いてみた。

①「人生はまともじゃない。」つまり、人間の生は理不尽であり、不条理である。それは、「まとも」、つまり、いろいろな点で合理的ではなく、矛盾に満ちている。どこがまともでないかと言えば、ずっと無であったのに、突然生まれさせられ、たかだか100年に満たない生を生きさせられ、不意にその生を去ることを強いられる。そのあとは、(おそらく)永遠に無のままだろう。これは、尋常なことではない。

②「ひとは断りなしになかに入ってきて」つまり、人間は生を享けるが、決して納得できる、満足できる、理想的な環境に生まれることはほぼない。両親を選ぶことも、両親の知性や所得水準を選ぶこともできない。兄弟姉妹も住む場所もなにもかも自分で選ぶことはできない。あらゆる事柄(容姿、体格、知力、など)がすべて与えられたものでしかない。その場所と時間においてあらゆる偶然的事態によって生まれさせられただけだ。しかも、そうした自分の周囲の理不尽にも偶然でしかない環境を正確に了解できるようになる、物心がつく(自己意識・知性・自我が生じる)のは十数年を経てからなのだ。

③「行く先もわからずに出て行く」つまり、自死でない限り、自らの希望や意思と無関係に死ぬ時期を与えられる。死とはどのようなものかもわからず、すなわち、死は生が単に断絶し、空無となるのか、死後に新たな世界があるのかということが全くわからないまま、生命が絶たれる。

④「しかもそこにいるときは何をしているかわかっていない。」つまり、人間の生とはなんなのか、人間の行為・行動の価値や意味はあるのか、ないならば、作り出すことができるのか、全くわからないままに、試行錯誤や悪戦苦闘の連続の中で過ごしていく。

 

 

上記の④の「わかっていない」というのは、つまり無知であることを知った場合に出る嘆息としての「わからない」という意味で、実は、ほとんどの人間は「常識,あるいは年齢または国籍による習慣的信念,あるいは(慎重な理性の協力または同意なしに自分の心に生い育ってきた確信等に由来する)偏見にとらわれて生涯を送る。そのような人にとっては,世界は明確で有限で明白なものとなってしまいやすい。ありふれた対象は問題を呼び起こすことなく,未知の可能性は軽蔑的に拒否される。(中略)本能的な人間の生活はかれの私的な利害関心の範囲内に閉じ込められている。家族や友人は含められるであろうが、外の世界は、それが本能的欲求の範囲内にあるものを助けたり妨げたりしない限り、まったく無視されてしまう。」((バートランド・ラッセル「哲学入門」角川文庫昭和40年4月10日p178-179 )

 「(実は本当はなにも)わかっていない」ままで、「明確で有限で明白な」世界において世界‐内‐存在として、「この世の人生舞台にすっかり想いを吸い取られ、夢中になり没入して生きる」のが、普通の人間だろう。ハイデガーも『存在と時間』の中で注意深く、次のように書いている。

 「空談、好奇心、および曖昧性は、日常的に現存在が、おのれの『現』である在り方、つまり世界-内-存在の開示性である在り方を、性格づけている。これら三つの性格は、現存在でみられる実存論的な規定性なのだから、事物的に存在しているのではなく現存在の存在を共に構成している。それら三つの性格において、また存在に適合したそれら三つの性格の連関において、日常性の存在の或る根本様式が露呈するのだが、その根本様式をわれわれは現存在の頽落と名づける。(改行)頽落というこの名称は、なんら消極的な評価を言いあらわすのではなく、現存在は差しあたってたいていは配慮的に気遣われた『世界』のもとに存在しているということ、このことを意味すべきである。」(ハイデガー存在と時間中央公論社、1980年2月20日世界の名著74、原佑・渡辺二郎訳、p309)

 (「空談」=「語り広め、語りまねる」こと(同書p300)、好奇心=「つねに新しいものおよび出会われるものの転変による焦慮と興奮」を求める「気散じ」(同書p305))

 そう、「消極的な評価」をすべきではない。世界(この世)に産み落とされた現存在(人間)は「頽落」=「自分の人生を一所懸命に熱演し、人生の快苦に没入し」、また、「この世の人生舞台にすっかり想いを吸い取られ、夢中になり没入」しつつ生きていくものなのであって、そうした生き方自体は決してダメであることはない。むしろそれが当然だということだ。

 古東哲明も解説している。

「ちなみにドイツ語Verfallenは、『耽る・溺れる・吸収される』を意味する。堕落とか頽落といった道徳や宗教のニュアンスはない。読書に<耽る>とか財産を<没収される>といったときに使う、ニュートラルな日常語だ。ぼくたちがふだん、この世の人生舞台にすっかり想いを吸い取られ、夢中になり没入して生きるすがたを、うまく言い表しているとすらいえる。だから一貫してこの本では『耽落』と訳している。」(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談社、2002年3月20日p103)

 もともと私たちは物心がついたときに、すでにこの世に生まれさせられている。そして、親兄弟、学校(教師)、社会・世間からいろいろなものを教え込まれている。廣松渉もある対談集でこのように発言している。

「われわれの生に立ち現れてくる世界というのは、伝統的な言葉で言うと、もっと価値的なものに浸透されているというか、むしろそれが表に出てきているような世界なのであって、身も心も、そういう世界‐内-存在している」「私としては歴史‐内-存在といったモジリもいたしますけれども」。(大森荘蔵『哲学の饗宴 大森荘蔵座談集』理想社、1994年10月31日p45)

 廣松は、人は歴史-内-存在しているという。この世は「価値的なものが浸透」しているわけで、その中、つまり、その共同体に生まれ、その共同体のエートス(精神的雰囲気)を目いっぱい身にまとって成長していく。そして、成人するに従い、この世という人生舞台に没入して、その中で精いっぱい生きようと奮闘するものなのだ。この世に生まれた限りは、そうすべき十分な理由がある。そうなのだ。本質的には人間は自分が「何をしているかわかっていない」とはいえ、人間は自分では立派にふるまって日常生活を営んでいると確信している。すなわち、「本能的な人間の生活はかれの私的な利害関心の範囲内」で営まれる。ウェーバー社会学者)はそのことをもっと明確にこう書いた。「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、『理念』によってつくりだされた『世界像』はきわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。つまり、『何から』wovonそして『何へ』wozu『救われる』ことを欲し、また--これを忘れてはならないが--『救われる』ことができるのか、その基準こそが世界像だったのである。」(M.ウエーバー「宗教社会学論選みすず書房1972年10月25日p.58)

 現存在(人間)が歴史-内-存在しつつ、行為するときに、その行為の心理的起動力として作用する(直接に支配する)ものは「物質的ならびに観念的な」「利害関心」だという。物質的利害関心とは経済的な利害得失の計算でプラスとなる方を選択するということであり、観念的利害関心とは、地位、名誉、外聞、虚栄心、見栄、プライド、愛憎、好悪という非物質的(精神的・心理的)利害得失の計算でプラスになる方を選択するということだ。

 一人ひとりの人間は、それぞれの利害のダナミックスによって自分の人生を選択していくのだが、ときおり、「理念」「理想」による世界像が人々の心をつかむことがある。この世は「価値的なものが浸透」しているので、価値の中で、最も斬新で、最も正しいと思われる理念が現れることがあるという。だが、理念は必ずしも救済宗教の描く世界像による理念だけではないだろう。

 ハイデガーは『存在と時間』の終わりのページで、共同体・民族の共同的経験についてふれている。

「宿命的な現存在は、世界内存在として、本質上他者と共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起(「決意の隙間のない連続」=「生の連関」としての「個別的体験」p596)は、共生起(共同的経験)であって、運命として規定されている。この運命....は、共同体の、民族の生起」である。(ハイデガー、前掲書p593)

 「宿命的な現存在」が自身の「生の連関」において物質的・観念的な利害関心に基づいて選択と決断をするとしても、利害のダイナミックスの軌道を転轍するものが出現する。それは民族共同体の運命にかかわるものだろう。