自力型人間と他力型人間

 死ぬときの苦しみは、病気が招く痛みとともに、死の恐怖による苦しみもある。「長い苦しい病い―—それは死の恐怖のことです。そしてセスプロンはこう言っています。ある人にとって死は『虚無と取っ組み合う』ことであり、別の人たちにとっては自己と対決することであり、また別の人には神のうちに沈むことである。二つの考え方があるんです。禅などのように自分の力だけで悟りを開き、死を迎えるのは自己と対決するということでしょう。しかしそこには虚無と取っ組み合うものが隠れていないか。たとえば、浄土宗とか浄土真宗のように阿弥陀さんにすがって成仏するというのもあります。人間にも自力型と他力型とあるように。それに宗教には自力の要素と他力の要素とが混ざり合っています。自力信仰は死に方を大事にするでしょうが、他力信仰は死に方をそれほど問題にしないと思うのです。」(遠藤周作『死について考える』光文社1996年11月20日p45)

 遠藤は死の恐怖の克服の仕方には二通りあると言っている。自力型の人はまず、死というものは虚無になることだから、その無になる恐怖を克服する方法を模索する。「虚無と取っ組み合う」とは無になる恐怖と闘うことだ。仏教の世界観は究極的には涅槃の状態に入ることが理想である。涅槃とは輪廻転生から解放されて永遠の休息に入ることだという。これは永眠と同義であり、無と同義である。仏教は科学と両立できると言われるのは死後の世界を無であると黙示的に示しているからであるが、この永遠の休息(永眠)=無が理想という宗教は仏教だけだ。そして、仏教は自力型と他力型という二つの教えを持っている。達人向けの自力型教義と一般人向けの他力型教義である。他力型の教義の典型は大乗仏教から派生した浄土宗や浄土真宗の教えだろう。

 キリスト教の教義には本来死後の世界が無であるという考えはない。アフターライフの神の国の概念があるだけだ。しかし、面白いことに救済へと至る方法に自力型と他力型の2種類がある。自力型とはプロテスタント諸教派であり、他力型とはカトリックである。

 自力型の教義の典型はカルヴァンの予定説である。

「予定説に従えば、その人が神の救済にあずかれるかどうかはあらかじめ決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされる。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がない。神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということである。これは、条件的救いに対し、無条件的救いと呼ばれる。神は条件ではなく、無条件に人を選ばれる。神の一方的な恩寵である。」(出典下記Wikipedia

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%88%E5%AE%9A%E8%AA%AC

 カルヴァン派の信徒は、たった一人で神と対決せざるを得ない。そして、造物主である神が自分を救済してくれるのかどうかは全くわからない。予定説とは「永遠の昔(神が被造物を創造したとき)から、救われている者と救われていない者とがすでに決定されている。永遠に神の国に住むことができる者として予定されている者と永遠に滅びを予定されている者とがいる」というものなので、誰が救われており、誰が救われていないのかは被造物の人間には永遠に計り知れないのだ、とされる。つまり、神が創った陶芸品(=人間)の中で、作品として残されるものと、失敗作として割られ、廃棄されるものの差もその理由も、陶芸品には永遠に知られえないのと同じだというわけだ。

 これほど恐ろしい思想はない。そんな思想が普通の人々に受容されるわけがない、はずだった。

 ところが、カルヴァン派信徒たちは、下記のような解釈をいろいろと考え尽くしてひねり出した。(小室直樹『日本人のための宗教原論』徳間書店2000年6月30日、同『天皇の原理』文芸春秋1993年6月15日より)

1.救われている人の三つの条件

 ①救われている人はキリスト教を信仰している(キリストの復活を信じている)

 ②神の万能を信じ、予定説を信じている

 ③カルヴァン派の教えを信じている

2.予定説を受容したカルヴァン派信徒たちの心理メカニズム

    ①ひょっとしたら、自分は救われている人々の中に選ばれているに違いない

 ②しかし、それは誰も知らないので、現世の中で<救いの確かさ>を求め続ける  

  しかない(信仰の無限軌道)

 ③<救いの確かさ>は、まずは、「救われている人の三つの条件」を満たし、予定 説の逆因果律(善きことをするから神が救済すると予定したのではなく、予定したか ら、善きことをする。同じく悪しきことをするから神が予定しないのではなく、神が 予定しないから、この人は悪しきことをするのだということ。)に従って「救いの側 に予定されている」から、善をなす人こそ自分である。ゆえに自分は善をなしている。これは自分が救われている確かな証だろうと考える。彼は決して悪をなさ ぬ。救いの確かさを得るためにも。

 ④キリスト者(かつ救われている者)の義務は、現世において神の栄光 を増大させ てしてゆくことであり、その手段は隣人愛の実践である。 隣人愛の実践とは、隣人た ちが日常必要であるが、自らは生産していないものを作るということである。カル  ヴァン派の信徒は商工業に従事し、そうした職業労働に精励することによって利益(利潤)=富が 増してゆくとき、その富の大きさこそが、<救いの確かさ>に違いな いと考えた。こうして、鋼鉄のようなピューリタン的商人(ウェーバー)が誕 生した。

 

 カルヴァン派信徒の心の内側での「救いの確かさ」の自己確認は結局、遠藤が指摘した「虚無と取っ組み合う」行為に似て、たった一人で遂行せざるを得ない。自力型の宗教なのである。なぜなら、誰も自分が救われているのか救われていないのか教えてくれないのだから。そして、<救いの確かさ>の証としての富が蓄積されていくとともに、容易に内面の信仰は形骸化し、救われている者の三条件を外形的に満たすことで、社会の富裕層としてのエリート意識だけが前面に現れる。

 

 一方、他力型のカトリック教会にあっては「予定説はトリエント公会議で異端として排斥された。」(同Wikipedia)という。カトリック教会は、修道院において徳のある修道僧が徳を積み、その徳を免罪符として一般の衆生に販売するという方法を考えだした。その免罪符を買えば、永遠に滅びに予定された衆生も救済されるということにしたのである。