ニーチェの「神は死んだ」

 ニーチェは「神は死んだ」(正確に言うと、Gott ist totは「神は(もともと)死んでいる」、つまり神はもともといないという意味)と言った。真昼に提灯を下げて、その狂人は街の広場の民衆にそう叫んだ。これは単なるたとえ話である。ヨーロッパ人は、おそらく今でも、ニーチェのこの言葉を忌避するだろう。「罰当たりめ」とののしって。

 しかし、日本人である私は、全知全能の人格神などいないと思っている。肉体と魂(霊)問題は別として、人格神はいないというのが日本人の感じ方だろう。仏教の教義でも、世界のあり方として、人格神という教義はない。 

 ヨーロッパ人のニーチェは、2000年もの間すべてのヨーロッパ人をだましたパウロ(及びパウロ主義としてのキリスト教)を告発したのである。中島は書いている。

 ニーチェのいう「『神の死』とは(中略)『死後の生命はない』ということ、あらゆる人間は死してのち全くの無になるのであり、それが永遠に続くということである。死後の生命が何らかのかたちで『ある』と信じていた者にとって、じつは『(死後の生命のようなものは)何もない』こと、しかも2000年のあいだ『ある』と騙されていたにすぎないこと、これは足腰が立てなくなるほどの衝撃であり、世界の相貌を一変させるほどの事件である。」(中島義道『過酷なるニーチェ河出書房新社2016年11月20日p28-p29)だから、今現在における「世界の相貌」は次のようなものとなる。すなわち「『死後の世界』などない。この世で不幸な人があの世で報われるわけではない。この世で道徳的によく生きた人があの世で褒められるわけではない。悪の限りを尽くした人があの世で罰を受けるわけではない。この世しかないのだ。よって、『神の死』は人間の死の意味を根底から変える。人間が生まれ出て死ぬこと、この事実の裏に何らの目的も意図も隠れているわけではない。人間はただ生まれてただ死ぬのであり、それが『すべて』なのだ。(改行)あらゆる人は、たかだか100年生きて、そのあとは永遠の無が待っているだけなのだ。何をする気力もなくなり、何をしていいかさえわからない。ただ、こうした不条理の前に戸惑い、苛立ち、絶望するだけである。(中略)自分がまもなく死に、そのあとは永遠の無であることを悟ったとき、われわれはどのように生きることができるのか?いかに生きても、いかによく生きても、たちまち無に転じ、それが世界の終焉まで続くのだ。二度と生き返ることはないのだ。」(中島同書p29-p30)「自分は自分の意志でもないのに、ちょっと前にこの世に産み落とされ、あっという間に地上から消え去り、その後は永遠の無が待っているだけである。しかも、その人生は苦しみの連続である。神がいないとしたら、なんで自分はこんな過酷な状況に投げ込まれたのか、まったくわからないのだ。」(中島同書p30-p31)