日々の随想

2015.9.20

過去物語りについて
 小林秀雄が「歴史について」の中で、思い出に生きる老人のことを書いている。その思い出を語る老人は、「まことに微妙な、それと気づかぬ自らなる創作」のように「過去を作り直して」「過去の風情を色どる」ものらしい。
 実際、私たちは過去の記憶については欠落部分が多いので、今の時点での内的経験の累積で得たもので、過去を再構成する。
 老人たちが「目を輝かして」過去を何度も何度も語ること、そのたびに、彼らは少しずつ過去を作り直しているのかもしれない。しかし、「おじいちゃん、また、同じことを言ってるよ」という孫たちの辟易にみられるように、語るたびごとに全くの別物になっている様子はない。では、どこに作り直しがあるのだろうか。
 そこはたぶん、細部の詳細な部分と意味づけなのだろう。
  過去の想起は、自らの記憶を抽出する作業、つまり、思い出すことから始まる。大森荘蔵が言うように、過去というものは、「過去物語り」=記憶としての言語の集合としてある。私たちは過去を言語的制作物としての「過去物語り」から始める。そして、大森が言いそびれたように、非言語的な部分(たとえば映像や因果性)は必ず過去の記憶に随伴する。それが過去物語りにクオリア(質感)を添加することになる。こうして「生き生きとした過去」が生まれるのだろう。
 老人たちが過去物語りを為すとき、脳生理学的に観察すると、老人たちの前頭葉が活性化することが知られている。老人たちが「生き生きとした過去」を語るとき、彼らはそれによって、自らの人生に対して「ヤー(イエス、よし)、もう一度」という全肯定の彩色をつけ、自分の生に深い満足を得ているのかもしれない。ニーチェが「永劫回帰」説でわかってほしかったことこそ、この「過去物語り」の効用だったのかもしれない。