不在の哲学

中島義道は、『不在の哲学』で書いている。

 「これまで、さまざまな哲学者が無について語ってきたが、そのほとんどは(私見によれば)不在なのであって、無ではない。無と不在との違いの一つは、前者にはそれを語る視点がないが、後者にはその視点があるということである。私は他人の死について『彼は死んでしまった』と語れるが、『私は死んでいる』と語れない。なぜなら、私は他人が死んでも私の視点を有するが、私が死ぬとその視点を失うからである。」(中島義道『不在の哲学』ちくま学芸文庫2016年2月10日p9-p10)

 不在とは、日常語として話し言葉で使用されるのであるから、「実在」の対立的概念として使用する場合、「不在」=非実在=非在と解したほうが、わかりやすいかもしれない。しかし、「もうない」「まだない」という否定性と「実在しない」という否定性は中島の考えにそって考えると、差が大きい。過去はもうないからといって、過去は実在しないとは言えない。過去は実在したのは間違いない。ただ、今はもうない。過去は実在しないのではなく、かつて実在し、今や不在ではある。それは「意味構成体」として人間の想起経験、あるいは、記録(歴史)の中にある。そうすると、やはり、「不在」=非実在=非在ではない。不在とはそういった極めて特別な概念なのである。

 中島は、「不在」という概念こそ、「言語を学んだ有機体」(人間存在)が駆使しうる能力なのだという。人間は言語を学んだことで、否定の文法を学ぶことができた。否定語を操ることで、観念のまとまりを複雑に表現することができた。過去を記憶し、未来を予期予測するには、否定の文法が必要なのだ。今は実在しないが、想起するという経験で、不在となった過去を蘇らせる。過去は記憶となり、記録となり、今、そして、未来に向かって「生きる」ための貴重な情報の蓄積庫となる。未来は、まだない。しかし、過去と今現在のためには、この未来という期待がなければ、人間は生きていけない。不在の、しかし、本当の無である未来は生きていく人間の必須の時間である。