死生学

岩崎大『死生学ー死の隠蔽から自己確信へ』

岩崎大氏は『死生学ー死の隠蔽から自己確信へ』(春風社、2015年1月25日)で書いている。

「『死とは何か』の答えは『生とは何か』の答えとして十分ではない。死を『生きていないこと』、『生の否定』とするならば、そこには死のみならず、誕生以前の状態も該当する。誕生以前の状態を死とは呼ばないのであれば、生であるか死であるか(生でなければ死、死でなければ生)という排中律は成立しない。すなわち人間は、生きているか、死んでいるか誕生していないかのいずれかであり、それゆえに『生とは何か』を導くためには『死とは何か』のみならず、『誕生していない状態(あるいは誕生)とは何か』が解明されなければならない。」(岩崎前掲書p11)

 こうして、生と死を考察すると、「生にとって死は必然ではなく、ある範囲の生物が現状として不可避的に負っている現象にすぎない。あるいは外的要因による死を必然として、死の確実性を確保する場合であっても、死は必ず生の後にあり、死はなくても生は成立するため、生の定義に死は必要ない。この点からすれば、死の規定は生の規定に至らず、遺伝学的には性に結びつくものであり、生の規定は生の必要十分条件である誕生のほうに求めるのが妥当である。」結局、「生と死の関係における死は、生の一側面にすぎない。」(岩崎前掲書p12)そうとすると、われわれ人間の「自らの生にとって、死がどれほどの意味をもつのか(というこの問い)。個々の価値判断にゆだねられるこの問いは、問いとして意識されることすらない。それほどまでに、生きている者にとって、死は力をもたない。」(岩崎前掲書p14)

 要するに、死の考察は狭く、(死は直接経験できないという)「不可知性」、死の考察など不要だとする「不要視」されているのが現状だという。