拒否したい事実に対して


ヘーゲルは『精神現象学』(作品社、1998年)に以下のように書いている。
「かつてイメージの分析なるものが盛んにおこなわれたが、それは既知の形式を廃棄するものにほかならなかった。一つのイメージを原初の要素へ分解することは、少なくともだれでもが手軽にはイメージはできず、自分にもどってその存在を直接にたしかめねばならないような要素へ還っていくことである。この分析も、帰するところ、既知で、確固として、安定した内容をもつ観念へむかうほかないが、しかし、肝心な点は、観念が日常世界とは次元を異にする非現実的なものだ、ということである。具体的なものが分裂し、非現実的なものになるというかぎりで、具体的なものはみずから運動するものとなる。分裂の活動は、知性の力と働きであり、驚異的で最高の、いや、絶対的ともいえる力のあらわれである。内部で安定した円環をなし、がっちりとその要素を堅持する円は、単純明快な形としてそこにあるだけで、格別に驚異を誘う関係を示してはいない。が、その囲いを外れた偶然の要素が、まだ束縛を感じつつ、もっぱら他の現実とつながりをもって、独自の存在となり、特別の自由を獲得するとなると、そこに巨大な否定力が働かねばならない。それが思考のエネルギーであり、純粋自我のエネルギーである。そこにうまれる非現実性を、わたしたちは死と名づけたく思うが、この死ほど恐るべきものはなく、その死を固定するには最大級の力が要求される。力なき美意識が知性を憎むのは、自分にできないことを知性が要求するからだが、死を避け、荒廃から身を清く保つ生命ではなく、死に耐え、死のなかでおのれを維持する生命こそが精神の生命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神が力を発揮するのは、まさしく否定的なものを直視し、そのもとにとどまるからなのだ。そこにとどまるなかから、否定的なものを存在(肯定的なもの)へと逆転させる魔力がうまれるのである」(同書p20-21)
 今までの経験のなかで、「最も悲惨な事態こそ、最善の結果」だった(ライプニッツの最善説)という逆説的な事態が起こることがあった。こうした認識はリアリズムと呼ばれたりする。冷静すぎて「冷血動物」などと罵倒されかねない。しかし、ヘーゲルもいうように、「否定的なものを直視し」、「否定的なもの」を「肯定的なもの」へと逆転させる「魔力」こそ、こうした冷たいリアリズムで分析する「精神」であった。

過誤・錯誤を犯さない方法はない。

2015.11.6
 人間は後ろ向きに新しい時代に入っていくとある経済学者は言った。「後ろ向き」とは「過去」を見つめながらという意味だろう。人間はそうせざるを得ない。なぜなら、未来はわからないし、見えないし、そもそも存在しないものだからだ。それに引き換え、過去は現実にあったものだから、その過去のトレンドを未来に延長することによって未来はこうあるはずという見込みをつけることができる。「後ろ向き」とはこういう意味だ。
 しかし、過去のトレンドで測った未来の予想図は大抵予想外となる。未来は過去とは違うからだ。どうなるかといえば、大体予想・目論見に反した結果となる。それは場合によっては「過誤・錯誤」となる。
 軍隊の戦闘において、敵と味方との勝敗について、よく「より少ない誤りを犯したほうが勝つ」といわれる。敵も味方も五里霧中のなかで、お互いに過誤・錯誤を犯すが、より少ない過誤・錯誤をなしたほうが勝つというわけだ。
 軍隊の戦闘だけではない。個人、集団、共同体の行為にもその「過小過誤の法則」は成立するのではないか。
 では過誤・錯誤を犯さない方法はないものか。
 ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言った。しかし、歴史は難しい。一つの史実の見方・解釈は複数あるのである。従って、歴史に学んでも、過誤・錯誤は避けることができない。ということは、人間は愚者も賢者も錯誤を犯すということだ。

日々の随想

2015.9.20

過去物語りについて
 小林秀雄が「歴史について」の中で、思い出に生きる老人のことを書いている。その思い出を語る老人は、「まことに微妙な、それと気づかぬ自らなる創作」のように「過去を作り直して」「過去の風情を色どる」ものらしい。
 実際、私たちは過去の記憶については欠落部分が多いので、今の時点での内的経験の累積で得たもので、過去を再構成する。
 老人たちが「目を輝かして」過去を何度も何度も語ること、そのたびに、彼らは少しずつ過去を作り直しているのかもしれない。しかし、「おじいちゃん、また、同じことを言ってるよ」という孫たちの辟易にみられるように、語るたびごとに全くの別物になっている様子はない。では、どこに作り直しがあるのだろうか。
 そこはたぶん、細部の詳細な部分と意味づけなのだろう。
  過去の想起は、自らの記憶を抽出する作業、つまり、思い出すことから始まる。大森荘蔵が言うように、過去というものは、「過去物語り」=記憶としての言語の集合としてある。私たちは過去を言語的制作物としての「過去物語り」から始める。そして、大森が言いそびれたように、非言語的な部分(たとえば映像や因果性)は必ず過去の記憶に随伴する。それが過去物語りにクオリア(質感)を添加することになる。こうして「生き生きとした過去」が生まれるのだろう。
 老人たちが過去物語りを為すとき、脳生理学的に観察すると、老人たちの前頭葉が活性化することが知られている。老人たちが「生き生きとした過去」を語るとき、彼らはそれによって、自らの人生に対して「ヤー(イエス、よし)、もう一度」という全肯定の彩色をつけ、自分の生に深い満足を得ているのかもしれない。ニーチェが「永劫回帰」説でわかってほしかったことこそ、この「過去物語り」の効用だったのかもしれない。

 

 

日々の随想

心の平安を保つために
 心の平安が乱される原因のひとつに思いどおりにならないということがある。いらいらしたり、むしゃくしゃしたりするのは、思いどおりにならないからである。「こうなればいいな」または「こうなるべきだ」といった期待や当為は裏切られることが多い。いや、「予想したことと真逆のことが起きる」事態が私たちの人生には多いのである。
 ではこうした期待を裏切られる事態をどう考えれば、心の平安を保つことができるのだろうか。
 ライプニッツは「現に生起する現象が一見いかに不可思議で理不尽に見えても、そう見えるのはわれわれの眼や思考が限られているからであって、すべての出来事はわれわれには知られえない無数の理由によって起こる。」(中島義道「後悔と自責の哲学」河出書房新社2006年4月30日からの引用)と書いた。今までのあらゆる世界の歴史の因果の連鎖を見れば、その当時の渦中の人間にはすべての出来事の原因(無数の原因)を知ることは不可能である。充足理由律(ライプニッツモナドロジー 形而上学叙説」中央公論社2005年1月10日の中で、すべての現象には理由があると書いた。これを充足理由律という。) と微小表象(人間の認識能力を超える微小な原因が連続して作用することで生起する表象)とが現象するこの世界にあっては、人は客観的な原因の全てを認識できないし、従って、重要な情報を欠いた極めて部分的な情報によって「選択と決断」による意思決定をせざるをえない。それゆえ、客観的な因果連関が、我々の予想を超えた、または、裏切る結果になることは当然すぎるほど当然なのだ。
 そこでライプニッツは「現実に起こることがいかに悲惨であろうと、それは最善の世界なのだ」と言った。確かに、悲惨な出来事が起こり、今後こうしたことのないようにとの願いと反省をこめて、事態を改革してゆくことはあった。最悪のことが起きない限り事態は改善されないということは、しばしばあったのである。
 われわれが心の平安を保つためには、「尊い犠牲」を受容するという諦念が必要であるかもしれない。

 

日々の随想

心の平安を得るために

こういう言葉がある。
「変えられるものは変える努力をしましょう。変えられないものは、そのまま受け入れましょう。起きてしまったことを嘆いているよりも、これからできることを皆で一緒に考えましょう。」(加藤諦三
 このごろ私はこの「変えられないもの」がほとんどであると思うようになった。こう考えることで、「変えられないものは、そのまま受け入れ」ようと考えるようになった。「変えられるもの」とは、私自身に属する事柄の中のごく僅かな部分である。その見極めはかなり難しいが、それは、変えようと努力することの中で、本当に変えられるのか否かがわかってくるかもしれないという期待が持てるか否かで判別するしかない。そして「努力」をしてみる。「努力」は継続すること、少しずつでも着実に実行することが大切だ。
 こうして私は心の平安を得ることができるようになった気がする。