後悔とは何か

私たちは、日常生活において、大なり小なり後悔をしている。後悔しない人はいないだろう。自分の昔の失敗(過失)や故意の所業を「今思い出しても、冷や汗が出る」と言う人は多いと思う。

 中島義道は後悔というものを分析して書いている。

「後悔とは過去を解釈することそのことであり、その解釈を通じて未来を形成することでもあるのですから、まさにわれわれの根源的な精神活動」である。(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p121)

 「その解釈を通じて未来を形成する」とは、「今思い出しても、冷や汗が出る」ような行為を将来に向けて二度とやるまいという決意をするということなのであろう。「根源的」というのは、後悔というもののあり方に問題があるにしても、その問題点をどんなに理を尽くして、後悔は無意味なのだと説いても、後悔という過去解釈をやめないということだ。「どんなに合理的に物を考える人でも、意図的行為であろうと非意図的行為であろうと、後悔する。後悔する者は、後悔しても過去の出来事をさかのぼって変えることができないことを知っている。いかなる理論より根源的である直観的な『了解』がある」というのだ。(中島同書p31)

 では、後悔という内省的行為はどんな問題を抱えているのだろうか。

 中島は後悔という行為は「無差別均衡の自由」という理論に基づいてなされるという。

 「無差別均衡の自由とは、次の二つの両立不可能なことを認める理論なのです。

(1)行為の前には、私がAを選ぶことと非Aを選ぶこととはまったく対等である。

(2)それにもかかわらず、私はAを選ぶ。」(中島同書p19)

 Aを選ぶことと非Aを選ぶことはまったく対等(無差別で均衡している)だから無差別均衡という。後悔の念はこの無差別均衡の自由の理論によって説明できる。「あのとき、そうせずにいることもできたはずなのに、これをやってしまった」と思い出して、身をよじって悔恨の涙を流し、かつ、自分を責める。

 この理論は正しいだろうか。殺人行為を例にとって考えてみよう。「無差別均衡の自由理論」でこの行為を分析すると、犯罪者Oは殺人行為をなすことと殺人行為を思いとどまることとは対等に選ぶことができたのに、彼は殺人行為を選んだとなる。もちろん、もしも現実に殺人行為をなし、殺人事件が起きた場合、物証、目撃証言、自供等で殺害された被害者をOが殺害したと認定された場合、殺人行為の結果責任は彼に帰せられる。起訴され、裁判で量刑が決定される。帰責のための判決書においては、確かにこの理論は有効に使用される。

 だが、実際はどうなのか。殺害事件の全容など犯人すらもその行為を「思いとどまることができたかどうかもまったくわからない。」(中島同書p106)「なぜなら、全ての行為はそれだけを取り出して解明できるものではなく、特定の意図的行為にはかずかずの非意図的行為がぴったりとまといついていて、しかもこの行為と別の意図的行為とのあいだにはおびただしい偶然がはびこっているからです。」(中島同書p106)

 しかし、人間は自由だからこそ悪も善も自由に選択できるという前提で、犯した悪を責任追及する。現代社会における刑法の運用は次のようになる。人間は自由な人格であるから、殺意があり、責任能力がある者は、殺人を犯した場合には、「そうしない自由があったにもかかわらず」あえて悪への自由を行使した犯罪人だとして罰せられる。

 この自由とは何か。中島はカントの自由論を紹介している。(同書p96以降の「状況における自由」を要約する。)

 世界史や各国史、個人史においては、それぞれの選択の場(状況)は、自由な選択に何らかの影響を及ぼすことができる。それにもかかわらず、私たちはいかなる状況のもとであろうと、「そうしないこともできたはず」と後悔するような選択、つまり自由な選択をなしうる。

「われわれが何ごとかを自由に選択する場合、①②が成立している。」(中島同書p97)

①自然因果性(Natur kausalität) 「われわれの行為の実現にいたる内的外的(物的心的)因果関係」、「行為の場を形成する(内的外的)状況」(中島同書p97)

②自由による因果性(Kausalität durch Freiheit)    「いかなる行為でも、それを開始する『意志』を純粋な『自発性』(Spontaneität)を具えているとみなし、(中略)この純粋に自発的な意志から行為を開始することであるとみなす」(中島同書p97)こと。この純自発的意志としての自由意志をカントは「超越論的自由」(transzendentale  Freiheit)と呼ぶ。この自由概念においては「純粋に自発的に行為する行為者」には、その行為の結果への帰責という側面が出てこない。そこで、カントは「実践的自由」(praktische Freiheit)という概念を持ってきた。これは「あらゆる傾向性からの自由」を意味する。傾向性とは「習慣的となった感覚的欲望、性向、性癖」のことである。

 さて、自由による因果性(因果連関)とは純粋に自発的な意志が原因となって実現される結果の連関(因果関係)であるが、人間は殺人を純粋に自発的に意志することで実現するとき、一方で、「殺人はしてはならない」という意志も実現することもできるとカントは想定する。これはさきほど書いた「無差別均衡の自由論」ではないか。「本来責任追及の因果性である“自由による因果性”を、行為を純粋に開始する原因としての自由(超越論的自由)が引き起こす因果性」(中島同書p102-p103)とカントは想定した。「(行為を)引き起こす」現在時点での自由意志は、「自由が発する」時点ではない。すなわち、私たちは、現実に行為するときは、物理的、心理的な因果関係によって、またそれらが錯綜した人間関係の創り出す内的外的な状況に押し切られるような形で行為するのである。一切の状況も因果の連鎖もない真空の中のような場で純粋な自発的自由意志が原因となる行為などありえない。自由による因果性という見方は、過去において、その行為の結果を引き起こしてしまった人間への責任追及をするための「遡及的因果関係」に限定しなければならなかったのだ。

 しかし、カントは自由意志による行為を「自由が発する」=自由意志が自由な行為を実現する時点そのものと考えたという。「現実の行為を実現しようという経験的=心理学的意志が発動されるまさに『そのとき』に『純粋な自発性』という性質を帰することは、そこで責任追及をストップさせ、それ以前にさかのぼることをやめることにほかならない。」(中島同書p103)つまり、自由による因果性はあくまで責任追及の規範としての因果性であるということだ。

 

生きて死ぬということ

なぜ自分はこの場所、この国に、この両親の間に生まれたのだろうか。物心がつき、高校で生物学を学んで哺乳動物の生態を学んでヒトという動物が私であることを理解した。しかし、その時にはすでに、言葉を覚え、学び、固有の文化に育まれていた。ただ、やはり、自分の人生を生きていくうえで、再び最初の疑問に戻る。

 周囲のこと(世界、日本、都道府県、市町村)は少しずつわかってきたが、なぜこのようにあるのか、なぜあのようにないのか、なんのために生まれてきたのか、どう生きていったらいいのか、わからないのは、今もそうだ。学校は行くように親たちが手配してくれた。大学を出て、就職をした。稼いで自立するには働く必要があったからだ 。

 しかし、生の意味とは、存在(なぜあるのか、むしろ無ではないのか)の意味とは何か。依然としてわからなかった。

 それから、「生老病死」はなぜなのかという疑問を持った。もちろん、生物学を学んで、生物には生殖と死があることは知った。進化(自然選択)の結果、有性生殖が死を創った。進化の代償が寿命なのだ。だが、やはり、最初の疑問に戻る。

 なぜ、私は、いま・ここに存在しているのか、生を享けたのか。偶然だという考えは便利だが、ごまかしだ。なぜなら、偶然だという断言は、それ以上詮索することを避けるということ、つまり思考停止を意味しているだけだからだ。是非もなくこのようにあったに過ぎないという考えも同じだ。では必然的、つまり、なにかの事実の必然的な積み重なりでこのように存在することになったのか。生物学的にはそうなのだろう。生殖と繁殖の必然的連鎖で、今の私はあるのは一つの事実だ。しかし、主観的意識を持つ私が、なぜこうして生殖と繁殖の因果的連鎖の果てに、今ここに現存在しているのか。固有の戸籍を持つ日本人の有機体x1という存在が私である必然性はない。それはどうしてなのか、わからない。

 つまり、なにもわからない。確かなのは、生物としての生命がいつか尽きることを理解しているということだ。私もいずれは死ぬ。その日がいつかはわからない。私が死ぬとき、私はすでに空無と化し、エピクロスが描いた通りの事態が実現する。

「死はもろもろの災厄の中で最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもないのである。なぜなら、われわれが現に生きて存在しているときには、死はわれわれのところにはないし、死が実際にわれわれのところにやってきたときには、われわれはもはや存在していないからである。」(三浦要 金沢大学人間社会学域人文学類教授『死は本当にわれわれにとって何ものでもないのか?』金沢大学哲学・人間学論叢での三浦訳.)

 エピクロスの言うことは一部は間違ってはいないが、一部は正しくない。死は私にとって眠りのようなものであることは確かだ。いつもなら翌朝目覚めて「あー、よく眠っていたな」と覚醒したときに振り返ることができるのだが、死の永眠の場合には、永遠に「振り返り」(追い越し)ができなくなるのだ。しかし、死は「われわれにとっては何ものでもない」というのは正しくない。その死を予期することで、私たちは恐怖を感ずる。死の予期とは、すなわち、今現在の日常生活の終了である。明日が来ない。いつもは来る朝が来ない。私の主観的な意識の経験が終了する。その日を境に、主観的な意識作用、自我、自己意識が消失し、私の身体は、物質として自然界にある物質が辿るプロセスを忠実に辿って雲散霧消する。私の身体は生命活動を停止するとともに腐敗が始まる。死後硬直、硬直解除、血液の循環が止まり、あらゆる身体の臓器の活動が停止する。声をかけても、ゆすっても、応答も反応もない。遺体となった私の身体は主を失って、もはや、火葬場で焼却するしかない。では、私はどこにいるのか。いない。不在でもない。無となる。私は目覚めるときの振り返りができないまま、空無となる。これは、想像であって、私は決して、私の死を見たり、聞いたりすることはできない。しかし、想像するだけで、恐怖を感じる。

 死の恐怖は観念的な(哲学的な)恐怖だと言われる。想像による恐怖だからだと。しかし、正確な事態の進行の予想予期だから観念的ということはできない。

 必然とは何か

必然的なものはなにもなく、にもかかわらず、偶然的に見えるものが現れるという不条理・理不尽が現れる。すなわち「人間は常に予測のつかない状況に投げ込まれているが、しかも...決断し行為しなければならない。そして、その行為によって引き起こされた結果とのあいだには無数の偶然が入り込むであろう。」(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p69)そのために、「目的論的行為連関」(人間の経済的社会的物的ならびに内的心理的精神的観念的利害関心に基づく目的的行為の系列)と客観的因果連関(人間諸個人の行為の集積が原因となった客観的な結果、その因果系列)の乖離が現出すると言われる。簡単に言えば、行為の目的と結果は常に乖離する=Aを目的に行為しても常に非Aが結果するという。 

 それはそうと、「客観的因果連関」というものの「客観性」は誰が決めるのか。自然科学の分野におけるものは別として、社会科学、特に歴史学において、真に「客観的」と言える因果連関が語りうるのか。その客観性を誰が保証するのか。現に「歴史の真実」が葬り去られてしまったことがあるのではないか。また、プロパガンダ的(つまり偽造の)歴史が堂々と「正史」のように語られている事実があるのではないか。あらゆる歴史的事実は、無限の如くあり、その無限の事実を取捨選択するのは、その事実及び事実の相互関係のごく一部しか認識できない人間たちである。マックス・ウェーバーが言うように、ある一定の価値観点(価値関心)から社会科学の客観性は作られるので、歴史の叙述も、一つの価値観点からなされる。例えば、アメリカ合衆国の歴史は「誇りある自力救済の開拓者による民主主義の歴史」と叙述され、あるいは、「先住民の虐殺、奴隷制の暗黒の歴史」としても語りうる。それは実を言えば、客観性というより間主観性というべきだろう。

 

偶然を恐れるな

「偶然を恐れ」るなと中島・ニーチェは言う。「いかに予測に外れたことでも、いかに理不尽なことでも、いかに不平等に見えることでも、現に生起した以上、それを完全に承認し受け容れ」よと言う。(中島義道『過酷なるニーチェ河出書房新社2016年11月20日p69-p69)俗にいう変えられないものは受け容れよという処方箋である。「その(行為によって引き起こされた)結果に対し全幅の責任を負」い、「その(偶然の)介入を積極的に受け容れ正面から対決」せよ。「予期せぬこと、思いもかけないこと、自分の意図ではないこと、すなわち偶然はひとを試しひとを鍛える」。(中島同書p69)すべての現実を、「神が最善のものとして選択する」のに代わって、「私が最善のものとして選択する」という態度をニーチェは誠実な態度であるという。(中島同書p72-p73)そして最善の選択をしたからには、その結果が予期通りならばそれでよし。真逆の結果ならば、その結果を完全に受け容れる、承認するのがニーチェの誠実な態度と呼ぶものだ。

 俗に「よく生きる」と言われる。ニーチェはその「よく」の意味の変換を要求する。ニーチェにとって「よく生きる」とは、「どこまでもより強くありたい自己の欲望に誠実に」生きることであり、「あらゆる種類の弱さに抗して」生きることだという。(中島同書p83)この世には不誠実に不正直に卑劣に違法に自分だけの利益を追求するような我欲の塊のように生きる者が多い。しかし、ニーチェによれば、不誠実に不正直に卑劣に違法に自分が欲する欲望のままに生きるということは弱いからだという。誠実に正直に適法に生きることは困難だが、だからこそ困難に打ち勝つほど強くあることが誠実な態度なのだ。このような生き方は困難である。つまり、人間は弱いのだ。権力に屈し、人に屈し、誠実をなげうち、正直さをなげうち、法にも触れてしまう。弱いからだ。誰かに嘘をついたことがない人はいない。一部を言わないこと(都合の悪いことを言わずに隠すこと)は嘘をついたことと同じだ。誰かを何かしら(期待とか希望とか)裏切ることもある。我欲のために何かを誰かを犠牲にする。

 過酷なるニーチェ、自分でさえも守ることができないことを言う。

 

ニーチェの「神は死んだ」

 ニーチェは「神は死んだ」(正確に言うと、Gott ist totは「神は(もともと)死んでいる」、つまり神はもともといないという意味)と言った。真昼に提灯を下げて、その狂人は街の広場の民衆にそう叫んだ。これは単なるたとえ話である。ヨーロッパ人は、おそらく今でも、ニーチェのこの言葉を忌避するだろう。「罰当たりめ」とののしって。

 しかし、日本人である私は、全知全能の人格神などいないと思っている。肉体と魂(霊)問題は別として、人格神はいないというのが日本人の感じ方だろう。仏教の教義でも、世界のあり方として、人格神という教義はない。 

 ヨーロッパ人のニーチェは、2000年もの間すべてのヨーロッパ人をだましたパウロ(及びパウロ主義としてのキリスト教)を告発したのである。中島は書いている。

 ニーチェのいう「『神の死』とは(中略)『死後の生命はない』ということ、あらゆる人間は死してのち全くの無になるのであり、それが永遠に続くということである。死後の生命が何らかのかたちで『ある』と信じていた者にとって、じつは『(死後の生命のようなものは)何もない』こと、しかも2000年のあいだ『ある』と騙されていたにすぎないこと、これは足腰が立てなくなるほどの衝撃であり、世界の相貌を一変させるほどの事件である。」(中島義道『過酷なるニーチェ河出書房新社2016年11月20日p28-p29)だから、今現在における「世界の相貌」は次のようなものとなる。すなわち「『死後の世界』などない。この世で不幸な人があの世で報われるわけではない。この世で道徳的によく生きた人があの世で褒められるわけではない。悪の限りを尽くした人があの世で罰を受けるわけではない。この世しかないのだ。よって、『神の死』は人間の死の意味を根底から変える。人間が生まれ出て死ぬこと、この事実の裏に何らの目的も意図も隠れているわけではない。人間はただ生まれてただ死ぬのであり、それが『すべて』なのだ。(改行)あらゆる人は、たかだか100年生きて、そのあとは永遠の無が待っているだけなのだ。何をする気力もなくなり、何をしていいかさえわからない。ただ、こうした不条理の前に戸惑い、苛立ち、絶望するだけである。(中略)自分がまもなく死に、そのあとは永遠の無であることを悟ったとき、われわれはどのように生きることができるのか?いかに生きても、いかによく生きても、たちまち無に転じ、それが世界の終焉まで続くのだ。二度と生き返ることはないのだ。」(中島同書p29-p30)「自分は自分の意志でもないのに、ちょっと前にこの世に産み落とされ、あっという間に地上から消え去り、その後は永遠の無が待っているだけである。しかも、その人生は苦しみの連続である。神がいないとしたら、なんで自分はこんな過酷な状況に投げ込まれたのか、まったくわからないのだ。」(中島同書p30-p31)

「慣習と理知の氷」

「人間は、一日に十八万七千もの思いをいだくという。(改行)だがその九八%は、過去の記憶の再生。聞くもの、見えるもの、想うことのほとんど、昨日や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけに、いやでも自動的にふち取られてしまう。概知の概念や解釈が、ぼくたち本人の意思を超えて、暗黙裡に即座に分泌され、刻一刻に新鮮であたらしく、唯一一回きりのはずの今この瞬間の光景を『過去化』する。」(古東哲明『瞬間を生きる哲学』筑摩書房2011年3月15日p73)

 「ピュアに斬新で現在的」な「直下のいまここの瞬間を、それ自体として『現在的に生きる』」瞬間=「刻一刻に新鮮であたらしく、唯一一回きりのはずの今この瞬間の光景」が生む思念はわずか2%だとは本当だろうか。明日とか1ヵ月先のことを考えて、企画し、計画することも、「昨日や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけ」が98%を占めるという。そうかもしれない。(古東同書p73)

「ぼくたち人間のがわの認知構造」は「瞬間を見失う構造」、すなわち「生きられている瞬間自体、いつも闇のなかにとどまることを、その現れ方としている」構造になっているからだ。(古東同書p74)

「直下のいまここの瞬間を、それ自体として『現在的に生きる』」瞬間を失ってしまうという。「生きていること(生・実存)も、それとひとつに生きられていること(世界)もともに、すっかり視野から脱け落ちていく」。

 マルセル・プルーストはそのことを「慣習と理知の氷」と名づけた。

「ぼくたちが行うことは、生の源〔原初の生〕へ遡ることだ。現実というものの表面には、すぐに習慣と理知〔推論的理性〕の氷が張ってしまうので、ぼくたちはけっしてなまの現実を見ることがない。だからぼくたちは、そうした氷を全力で打ち砕き、氷の溶けた海〔現実〕を再発見しようとするのである。」(M・プルースト『サント=ブーヴに反論する』古東哲明試訳、古東同書p91)

 伊丹十三のこと

伊丹十三は書いている。「私は、ですね、一言でいうなら、『幸福な男』なんです。然り。私は幸福である。あのね、正月なんか、女房子供と散歩するでしょ?うちの近所は一面の蜜柑畑ですよね。その蜜柑畑の中の細い道を親子で散歩しているとだね、あたりはしんと静まり返って、鳥の声だけが聞こえてくる。太陽が一杯に降りそそいで、蜜柑の葉がピカピカと輝いている。静けさがね、こう、光って澱んでるんだな。遠くに海が燦(かがや)いている。子供の声が澄んで響く。私は女房と黙黙として歩く。こオりゃ、しあわせだぜ、こオりゃ、しあわせですよ。ああ、こうなるために俺は今まで生きてきたんだと思いますよ。もう、なにやら、こう、大きなね、光り輝く金のオニギリをね、もうぱくぱく食べている感じね。」(伊丹十三著、「考える人」編集部編『伊丹十三の本』新潮社2005年4月20日p44-p45、1977年2月寺山修司演出パルコ・プロデュース公演『中国の不思議な役人』のためのパンフレットの中の「幸福男」という題のPR文)

 須原一秀はこれは「瞬間の幸せ感」というものであり、この瞬間において、その幸せ感が極大値に至るところから「生きている人間が到達しうるひとつの『極み』」(須原一秀自死という生き方』双葉社2008年p82)と名づけた。もちろん、マズローのピーク・エクスぺリエンス(至高体験)のピークを参考にして名づけたと思われる。そして「伊丹氏が自ら『幸福な男』と呼ぶのは、たまたま蜜柑畑で『極み』に達したからではなく、このような些細な『極み』に彼はいつでも四六時中達している種類の人間であり、彼の見るところ、彼の周辺のいろいろな人々が自分ほど頻繁には『極み』に達している様子がないので、その点で、自分は特に『幸福な男』であると主張している」(須原同書p83)のだろう、という。すなわち「彼(伊丹)は、自前であらゆる方向の『極み』に簡単に到達できる人のようである」と。(須原同書p84)

 その傍証に次のエッセイの文を挙げた。

 「ぽっかりと時間の空いた午後の一と刻を、カウンターで、モーゼルの白など一本取り寄せて、ロングネック(貝の一種)を酒菜(さかな)に原稿を書くなども、まことにもって悪くないわけで、もう、なんでこんな結構な店がこの世に存在するのかという驚きと感謝の念が安らかに我が身を包みこむのを感じる」。(伊丹同書p168-p169、初出「原色自由図鑑」『週刊文春』1977年4月7日号)「でね、今、非常に特殊な例を話したと思われるのは癪なんですねどね、全然特殊じゃないの。この程度の美味に遭遇することは、いわば毎日のことなんだな。」(伊丹同書p169)

 ところが、伊丹十三は旅に出ているときに限定しているかどうかは不明だが、食事を三食は食べないようだ。「まあね、私の場合ちょっと異常なのかもしれん。なんたって私は一日一食の人だからね、もう一日中、朝から晩めしのことを考えてる。今夜どこで何を食べるか。あらゆる情報集めますよ。でさあ、その場所行ったら、まあ、メニューをニ十分は絶対睨んでますよ。まあ馬鹿らしい情熱といえば確かに馬鹿らしい。(中略)でもね、私は旅しているんです。旅をしている私が晩めしを食うんです。晩めしを通じて、その国の文化と対決しようとしてるんです。(中略)その国の一番の良さというものを探り出すことは旅人の基本的な義務じゃありませんか。『...メニューの中に、うまい物が必ず一個はある』」。(伊丹同書p169)と伊丹は書いている。

 晩めしを朝から空腹を抑えて探す、そして食べる。それなら、旨いはずではないだろうか。「こんな結構な店がこの世に存在するのかという驚きと感謝の念が安らかに我が身を包みこむ」と腹の底から感じるのも当然ではなかろうか。

 しかし、「評判や値段の高さに誘導されて、特別に美味しいと感じたりする人とは違って、彼(伊丹)は自前のセンスで、そして独力で探し回って、あっさりとあらゆる方向の極みへと達する人であり、この場合は二つか三つの『極み』に達していたようである。しかもそれを自分の体で自前のセンスで明確に体感している」(須原同書p85)のは確かだと思われる。

 須原によれば、人が「(人生を)生き切る」ことを可能にする条件は「あらゆる方向の極みに日々達しつつ生きる」ことであり、「あらゆる方向の極みに日々達しつつ生きる」という極みの経験というものは、各人それぞれに各人の極みの経験の全体量=総量があるようであり、その多寡は各々相違するという。また年齢によって極みの経験の全体量=総量(質なのか量なのかはわからないが)は逓減するという。しかもそれも個人差があり、伊丹は年齢を重ねても極みの経験の量は変わらなかったようだと推測している。(須原同書p87)

 人生の極みに達する達人、伊丹十三は自殺したとされる。ウィキペディアによれば「事務所にワープロ印字の遺書らしきものが(別途関係者宛にも)残されていて、そこに『身をもって潔白を証明します。何もなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです』との文言があった」という。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%8D%81%E4%B8%89

 須原は、上述の遺書のほかに「伊丹のあの『母ちゃん、最高!』とか何とかいうパソコンの画面に残っていた遺言」(須原同書p87)が残されていたということに基づいて次のように書いている。

 伊丹の「ちょっとふざけたような、どこかはしゃいでいるような」遺言の内容は、「(伊丹の)心の中に深刻さがな」く、「特別興奮してるわけでも、何か頭が変になっているわけでもなく、解放されたせいで普段よりちょっとハイになって、『酒でもちょっと多めに飲んで、飛び降りてやろうか』というような調子だったであろうと想像」する。(須原同書p87)そして女性スキャンダルを単なる口実にして、上機嫌で自死したに違いないと結論づけた。

 伊丹の遺体を検視した警察によれば、ヘネシーのボトルを1本極めて短時間で飲み干したらしく、高濃度のアルコールが検出されたという。

「伊丹さんは、亡くなる直前、すきっ腹にヘネシーボトル1本を飲み干していることが、検死で分かっており、自殺する直前の人間の行動としては、非常に不自然なことから、犯人グループに無理やり飲まされ(流し込まれ)昏睡状態となったところ、屋上まで運ばれ、投げ落とされたのではないかと考えられているのです。(短時間で、度の強いアルコールを摂取すると、昏睡状態に陥るそうです)

http://koimousagi.com/17413.html

 伊丹には他殺説があり、出典不明の殺人の証言などもある。ただ、妻の宮本信子は2002年(平成14年)12月20日ホテルオークラで開催された「感謝の会」の挨拶で次のように述べている。

「本人が決めたことですから仕方ないのですけれども、女房としてみれば、私なりに思うことはあります。でも、それを書いたり喋ったりするつもりはありません。私が死んで棺桶に入るまで持っていくつもりです。」(前掲書『伊丹十三の本』p206))

 これを解釈すれば、やはり、伊丹は例の若いOLとの不倫疑惑報道を受けた形で自殺したと宮本は考えているかもしれない。しかし、宮本の心のうちにおいて伊丹の死が他殺である疑いが濃厚であるという思いがあったとしても、自分と2人の子供の身の安全を護るために沈黙することに決めたのかもしれない。