幸福の神義論

価値・意味・理念・理想・大義、そうした価値体系一般について、それは存在するのかしないのか、中島義道ニーチェのように「人生に生きる価値はない」という哲学者の本からいろいろと学んでいる私としては、ケーガンの次のような文章に出会うと困惑してしまう。

「私自身はとても価値のある人生を送りながら、自分のオフィスで、健康に対する何の心配もなく、ゆったりと机に向かってこれらの問題(この文章は自殺論の中の章なので、自殺をめぐる諸問題である)について冷静に書き綴っている。」(シェリー・ケーガン『「死」とは何か』文響社2018年10月10日p331)ケーガンは、自分の人生において「人生における良いことのうちでも際立って価値」が高い「有意義な実績」を挙げるという人生の大きな目標を実現・達成したと自認している。今のケーガンはまさに大小の人生における数々の良いことに囲まれて、幸福に生活していると自認しているように見える。

 ウェーバーは書いている。 

「幸福な人間は、自分が幸福を得ているという事実だけではなかなか満足しないものである。それ以上に彼は、自分が幸福であることの正当性をも要求するようになる。自分はその幸福に『値する』、なによりも、他人と比較して自分こそがその幸福に値する人間だとの確信が得たくなる。したがってまた、彼は、自分より幸福でない者が、自分と同じだけの幸福をもっていないのは、やはりその人にふさわしい状態にあるにすぎない、そう考えることができれば、と願うようになる。自己の幸福を『正当な』ものたらしめようと欲するのである。もし『幸福』という一般的な表現をもって名誉・権力・財産・快楽などのあらゆる諸財を意味せしめるとすれば、この幸福の正当化ということこそ、いっさいの支配者・有産者・勝利者・健康な人間、つまり幸福な人々の外的ならびに内的な利害関心のために宗教が果たさなければならなかった正当化という仕事のもっとも一般的な形式であり、これが幸福の神義論と呼ばれるものである。この幸福の神義論は、人間の牢固として抜きがたい(『パリサイ的な)』欲求に根拠をもっているから、その影響にしばしば十分な注意が払われていないとしても、その意味は容易に理解することができるはずである。」(マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』みすず書房1972年10月25日p41-p42)

 

 ここで、「宗教」という言葉は、ケーガンなどの米国の哲学と読み替えることができる。また、「パリサイ的」とは護教論的という意味である。なんでもこじつけて、自分に有利なもっともらしい説明をこしらえる態度のことである。「幸福な人々の外的ならびに内的な利害関心のために」作り上げられた理念による世界観が「幸福の神義論」であって、こうした理念は利害関心の方向を転轍する能力を始めから喪失しているものなのである。