偶然と必然 

すべてを見透す、超自然的意志などない、かもしれない。私は、科学的認識・知識としては同意する。しかし、巷では手相占いが盛んで、四柱推命などの占いの本が売れている。中島からすると、超自然的な意志などないし、私たちの人生はあらかじめ決定されているわけではない。それらは嘘っぱちだと言うだろう。だが、人は予想もしえない、理由もわからない禍を被ってしまったら、どうなるのか。「救われたい、苦しみから逃れたい、楽になりたい」という欲望によって「運命論という決定論」に縋りつく。「すべてはこうなるように決定されていた、そうなる運命だった」という思いは、苦しい・切ない・つらいという感情、後悔と自責の感情を打ち消すのではなく、そのまま残しながら、傷ついた心を癒すという。また「未来における禍に対しても」防護する盾となるともいう。(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p151)そういう機序(メカニズム)を知りながら、なぜ中島は運命論という決定論を拒絶するのか。普通の人は科学的客観的認識や知識に基づいて「これは単なる偶然だ」と思い、一時的に「これは運命だったんだな」と思う。この偶然と運命(必然、決定論)を行ったり来たりすることをなぜ責めずにいられないのだろうか。それは、理性・論理を優先するからだ。中島には一神教原理主義の雰囲気がある。理詰めでどこまでも追求する。彼なら、「人間の手のしわで当人の性格や将来がわかるどのような根拠があるのか、科学的な証拠があるのか」と言うだろう。超自然的な秩序や意志の実在を証拠立てる何ものもない。

 しかしながら、日本には大昔から、加地伸行が指摘する「一知一能の神」(一つの知識、一つの能力しかもたない神・全知全能の神の反対語)が信仰されていた。受験となれば学業の神様を祀る大宰府天満宮、安産祈願なら東京水天宮。12月24日から翌日までの一日半限定のイエス・キリストを祀るクリスマス。子どもがクリスチャンの高校に入学すれば、3年間限定でクリスチャンになるという。今現在と未来(これから)の間の「大きな裂け目」に向い未来の厄災を避けようと願うこと。これからの出来事を何も知りえない庶民は、神々などいないかもしれないと心の底で思ってはいても、切ない願いをぶつけるのだ。