現実世界の2つの見方

「われわれは一方では、『同一のもの』を抉り出しながら、他方では、それでは吸収されない『異質なもの』を感じています。すなわち、現実世界を

(A)『異質なものの絶対的に一回的な継起』として

(B)『同一なものの繰り返し』として

というお互いに融合しえない根源的な二重の視点から見ているのです。」(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p127)

 (A)の世界とは「究極まで行くと言語による表現は不可能ですが、われわれは日々新しいことが生じている(日々新しいことが湧き出している)、刻々と新しい体験をしている」(中島同書p127-p128)世界である。この世界が実感されるときは、「自分にとって実存を突き刺すほどの衝撃的な禍や事故」、「一回かぎりのかけがえのない事故」(中島同書p128)のときである。ただ、この世界は「いかなる名指しもできない世界」であり、「この事故」という言い方をしたとたんに「同一のもの」(事故という観念)に「からめ取られ」てしまう。(中島同書p129)「時折魂を揺さぶられる出来事に遭遇」することで(A)の世界を垣間見る。「だが、『生きていかねばならない!』とという叫びとともに、以前のように『同一のもの』を計算する生活に舞い戻る」。(中島同書p129)「人生のみならずこの世で起こる現象のすべてにわたって、刻一刻ほとんど無限と言っていいほど新しいことが生じている。」(中島同書p131)毎日の日常は「繰り返し」=「同一のもの」と思われているが、実は、一日として「同一のもの」はない。常に、いつも異なっている。毎日の通勤一つとっても、仔細に見ればその態様は無限に異なっている。「だが、われわれは普通こうした(たとえば)歩き方の無限に近い差異を重要なものとして認めない。そして、それらの差異を『歩くこと』という『一つの』観念のうちに吸収してしまう。こうして、言葉を学ぶとは、恐るべき多様な差異を同一の観念へとまとめあげる仕方を学ぶことであり、いったん言葉を学んでしまうと、もう世界はそういうさまざまな『同一なもの』の繰り返しとして見えてきてしまいます。」(中島同書p131-p132)

 「時々刻々起こることは」は、「ほとんど確率がゼロ」、しかも「毎日のように頻繁に起こっている」。(中島同書p140)それが世界の実相(「(A)異質なものの一回かぎりの継起」の世界)なのだ。

 しかし、私たちは(B)『同一なものの繰り返し』としての世界を創り上げた。

「そこ(そうした異質のものの世界)にさまざまな関心から『同一のもの』を入れ込んで、世界を同一のものの繰り返しとして見なおす。そして、その最も基本的な『同一のもの』こそ、『これまで』と『これから』とを『同一の時間』における二つの様相とみなすことです。こうした前提で世界について知ること、それが世界を認識することであり、科学的認識はその最も洗練されたものです。そして(中略)『偶然』もまた世界に対する認識の一つなのですから『同一のもの』をもち込むことによってはじめて成立している」。(中島同書p141)(台風の例)「偶然とは(中略)世界を『同一のもの』の繰り返しと見る態度のとどまることによって生ずる。とすれば、偶然から脱却したければ、(A)に移行すればいいはずです。われわれが完全に(A)を自覚すれば、そこには『同一のもの』は生じていない。森羅万象まさに現にあるようにあるだけであって、必然も偶然もない。それでオワリ。」(中島同書p142)しかし、それは「難しい」。なぜなら、「『同一のもの』のものを脱した固有の体験が開かれるだけであり、それを語る事もできないからです。つまり、他人とのコミュニケーションをあきらめざるをえないばかりか、みずからもいかなる判断もできなくなる。あらゆる認識を拒否し、認識に必要なあらゆる言語使用を、いやそれ以前の言語による観念形成をも拒否しなければならない。」(中島同書p142)

「このすべてを認めるほかないこと、そしてそれ以外のいかなる理屈も断固拒否すること」(中島同書p154)中島説、これに類似の説にニーチェの「運命愛」がある。「すべてがまさに偶然であることをそのまま認めよということ。たしかにすべては何の原因も何の目的も、何の意味もなく起こっている。だが、そのことをそのまま承認すること。現に起こったこと、起こること、起こるであろうことに対して、常に”Ja”と肯定すること。それが(ニーチェの)運命愛」(中島同書p149)だ。