後悔とは何か

私たちは、日常生活において、大なり小なり後悔をしている。後悔しない人はいないだろう。自分の昔の失敗(過失)や故意の所業を「今思い出しても、冷や汗が出る」と言う人は多いと思う。

 中島義道は後悔というものを分析して書いている。

「後悔とは過去を解釈することそのことであり、その解釈を通じて未来を形成することでもあるのですから、まさにわれわれの根源的な精神活動」である。(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p121)

 「その解釈を通じて未来を形成する」とは、「今思い出しても、冷や汗が出る」ような行為を将来に向けて二度とやるまいという決意をするということなのであろう。「根源的」というのは、後悔というもののあり方に問題があるにしても、その問題点をどんなに理を尽くして、後悔は無意味なのだと説いても、後悔という過去解釈をやめないということだ。「どんなに合理的に物を考える人でも、意図的行為であろうと非意図的行為であろうと、後悔する。後悔する者は、後悔しても過去の出来事をさかのぼって変えることができないことを知っている。いかなる理論より根源的である直観的な『了解』がある」というのだ。(中島同書p31)

 では、後悔という内省的行為はどんな問題を抱えているのだろうか。

 中島は後悔という行為は「無差別均衡の自由」という理論に基づいてなされるという。

 「無差別均衡の自由とは、次の二つの両立不可能なことを認める理論なのです。

(1)行為の前には、私がAを選ぶことと非Aを選ぶこととはまったく対等である。

(2)それにもかかわらず、私はAを選ぶ。」(中島同書p19)

 Aを選ぶことと非Aを選ぶことはまったく対等(無差別で均衡している)だから無差別均衡という。後悔の念はこの無差別均衡の自由の理論によって説明できる。「あのとき、そうせずにいることもできたはずなのに、これをやってしまった」と思い出して、身をよじって悔恨の涙を流し、かつ、自分を責める。

 この理論は正しいだろうか。殺人行為を例にとって考えてみよう。「無差別均衡の自由理論」でこの行為を分析すると、犯罪者Oは殺人行為をなすことと殺人行為を思いとどまることとは対等に選ぶことができたのに、彼は殺人行為を選んだとなる。もちろん、もしも現実に殺人行為をなし、殺人事件が起きた場合、物証、目撃証言、自供等で殺害された被害者をOが殺害したと認定された場合、殺人行為の結果責任は彼に帰せられる。起訴され、裁判で量刑が決定される。帰責のための判決書においては、確かにこの理論は有効に使用される。

 だが、実際はどうなのか。殺害事件の全容など犯人すらもその行為を「思いとどまることができたかどうかもまったくわからない。」(中島同書p106)「なぜなら、全ての行為はそれだけを取り出して解明できるものではなく、特定の意図的行為にはかずかずの非意図的行為がぴったりとまといついていて、しかもこの行為と別の意図的行為とのあいだにはおびただしい偶然がはびこっているからです。」(中島同書p106)

 しかし、人間は自由だからこそ悪も善も自由に選択できるという前提で、犯した悪を責任追及する。現代社会における刑法の運用は次のようになる。人間は自由な人格であるから、殺意があり、責任能力がある者は、殺人を犯した場合には、「そうしない自由があったにもかかわらず」あえて悪への自由を行使した犯罪人だとして罰せられる。

 この自由とは何か。中島はカントの自由論を紹介している。(同書p96以降の「状況における自由」を要約する。)

 世界史や各国史、個人史においては、それぞれの選択の場(状況)は、自由な選択に何らかの影響を及ぼすことができる。それにもかかわらず、私たちはいかなる状況のもとであろうと、「そうしないこともできたはず」と後悔するような選択、つまり自由な選択をなしうる。

「われわれが何ごとかを自由に選択する場合、①②が成立している。」(中島同書p97)

①自然因果性(Natur kausalität) 「われわれの行為の実現にいたる内的外的(物的心的)因果関係」、「行為の場を形成する(内的外的)状況」(中島同書p97)

②自由による因果性(Kausalität durch Freiheit)    「いかなる行為でも、それを開始する『意志』を純粋な『自発性』(Spontaneität)を具えているとみなし、(中略)この純粋に自発的な意志から行為を開始することであるとみなす」(中島同書p97)こと。この純自発的意志としての自由意志をカントは「超越論的自由」(transzendentale  Freiheit)と呼ぶ。この自由概念においては「純粋に自発的に行為する行為者」には、その行為の結果への帰責という側面が出てこない。そこで、カントは「実践的自由」(praktische Freiheit)という概念を持ってきた。これは「あらゆる傾向性からの自由」を意味する。傾向性とは「習慣的となった感覚的欲望、性向、性癖」のことである。

 さて、自由による因果性(因果連関)とは純粋に自発的な意志が原因となって実現される結果の連関(因果関係)であるが、人間は殺人を純粋に自発的に意志することで実現するとき、一方で、「殺人はしてはならない」という意志も実現することもできるとカントは想定する。これはさきほど書いた「無差別均衡の自由論」ではないか。「本来責任追及の因果性である“自由による因果性”を、行為を純粋に開始する原因としての自由(超越論的自由)が引き起こす因果性」(中島同書p102-p103)とカントは想定した。「(行為を)引き起こす」現在時点での自由意志は、「自由が発する」時点ではない。すなわち、私たちは、現実に行為するときは、物理的、心理的な因果関係によって、またそれらが錯綜した人間関係の創り出す内的外的な状況に押し切られるような形で行為するのである。一切の状況も因果の連鎖もない真空の中のような場で純粋な自発的自由意志が原因となる行為などありえない。自由による因果性という見方は、過去において、その行為の結果を引き起こしてしまった人間への責任追及をするための「遡及的因果関係」に限定しなければならなかったのだ。

 しかし、カントは自由意志による行為を「自由が発する」=自由意志が自由な行為を実現する時点そのものと考えたという。「現実の行為を実現しようという経験的=心理学的意志が発動されるまさに『そのとき』に『純粋な自発性』という性質を帰することは、そこで責任追及をストップさせ、それ以前にさかのぼることをやめることにほかならない。」(中島同書p103)つまり、自由による因果性はあくまで責任追及の規範としての因果性であるということだ。