生きて死ぬということ

なぜ自分はこの場所、この国に、この両親の間に生まれたのだろうか。物心がつき、高校で生物学を学んで哺乳動物の生態を学んでヒトという動物が私であることを理解した。しかし、その時にはすでに、言葉を覚え、学び、固有の文化に育まれていた。ただ、やはり、自分の人生を生きていくうえで、再び最初の疑問に戻る。

 周囲のこと(世界、日本、都道府県、市町村)は少しずつわかってきたが、なぜこのようにあるのか、なぜあのようにないのか、なんのために生まれてきたのか、どう生きていったらいいのか、わからないのは、今もそうだ。学校は行くように親たちが手配してくれた。大学を出て、就職をした。稼いで自立するには働く必要があったからだ 。

 しかし、生の意味とは、存在(なぜあるのか、むしろ無ではないのか)の意味とは何か。依然としてわからなかった。

 それから、「生老病死」はなぜなのかという疑問を持った。もちろん、生物学を学んで、生物には生殖と死があることは知った。進化(自然選択)の結果、有性生殖が死を創った。進化の代償が寿命なのだ。だが、やはり、最初の疑問に戻る。

 なぜ、私は、いま・ここに存在しているのか、生を享けたのか。偶然だという考えは便利だが、ごまかしだ。なぜなら、偶然だという断言は、それ以上詮索することを避けるということ、つまり思考停止を意味しているだけだからだ。是非もなくこのようにあったに過ぎないという考えも同じだ。では必然的、つまり、なにかの事実の必然的な積み重なりでこのように存在することになったのか。生物学的にはそうなのだろう。生殖と繁殖の必然的連鎖で、今の私はあるのは一つの事実だ。しかし、主観的意識を持つ私が、なぜこうして生殖と繁殖の因果的連鎖の果てに、今ここに現存在しているのか。固有の戸籍を持つ日本人の有機体x1という存在が私である必然性はない。それはどうしてなのか、わからない。

 つまり、なにもわからない。確かなのは、生物としての生命がいつか尽きることを理解しているということだ。私もいずれは死ぬ。その日がいつかはわからない。私が死ぬとき、私はすでに空無と化し、エピクロスが描いた通りの事態が実現する。

「死はもろもろの災厄の中で最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもないのである。なぜなら、われわれが現に生きて存在しているときには、死はわれわれのところにはないし、死が実際にわれわれのところにやってきたときには、われわれはもはや存在していないからである。」(三浦要 金沢大学人間社会学域人文学類教授『死は本当にわれわれにとって何ものでもないのか?』金沢大学哲学・人間学論叢での三浦訳.)

 エピクロスの言うことは一部は間違ってはいないが、一部は正しくない。死は私にとって眠りのようなものであることは確かだ。いつもなら翌朝目覚めて「あー、よく眠っていたな」と覚醒したときに振り返ることができるのだが、死の永眠の場合には、永遠に「振り返り」(追い越し)ができなくなるのだ。しかし、死は「われわれにとっては何ものでもない」というのは正しくない。その死を予期することで、私たちは恐怖を感ずる。死の予期とは、すなわち、今現在の日常生活の終了である。明日が来ない。いつもは来る朝が来ない。私の主観的な意識の経験が終了する。その日を境に、主観的な意識作用、自我、自己意識が消失し、私の身体は、物質として自然界にある物質が辿るプロセスを忠実に辿って雲散霧消する。私の身体は生命活動を停止するとともに腐敗が始まる。死後硬直、硬直解除、血液の循環が止まり、あらゆる身体の臓器の活動が停止する。声をかけても、ゆすっても、応答も反応もない。遺体となった私の身体は主を失って、もはや、火葬場で焼却するしかない。では、私はどこにいるのか。いない。不在でもない。無となる。私は目覚めるときの振り返りができないまま、空無となる。これは、想像であって、私は決して、私の死を見たり、聞いたりすることはできない。しかし、想像するだけで、恐怖を感じる。

 死の恐怖は観念的な(哲学的な)恐怖だと言われる。想像による恐怖だからだと。しかし、正確な事態の進行の予想予期だから観念的ということはできない。