必然とは何か

必然的なものはなにもなく、にもかかわらず、偶然的に見えるものが現れるという不条理・理不尽が現れる。すなわち「人間は常に予測のつかない状況に投げ込まれているが、しかも...決断し行為しなければならない。そして、その行為によって引き起こされた結果とのあいだには無数の偶然が入り込むであろう。」(中島義道『後悔と自責の哲学』河出書房新社2006年4月30日p69)そのために、「目的論的行為連関」(人間の経済的社会的物的ならびに内的心理的精神的観念的利害関心に基づく目的的行為の系列)と客観的因果連関(人間諸個人の行為の集積が原因となった客観的な結果、その因果系列)の乖離が現出すると言われる。簡単に言えば、行為の目的と結果は常に乖離する=Aを目的に行為しても常に非Aが結果するという。 

 それはそうと、「客観的因果連関」というものの「客観性」は誰が決めるのか。自然科学の分野におけるものは別として、社会科学、特に歴史学において、真に「客観的」と言える因果連関が語りうるのか。その客観性を誰が保証するのか。現に「歴史の真実」が葬り去られてしまったことがあるのではないか。また、プロパガンダ的(つまり偽造の)歴史が堂々と「正史」のように語られている事実があるのではないか。あらゆる歴史的事実は、無限の如くあり、その無限の事実を取捨選択するのは、その事実及び事実の相互関係のごく一部しか認識できない人間たちである。マックス・ウェーバーが言うように、ある一定の価値観点(価値関心)から社会科学の客観性は作られるので、歴史の叙述も、一つの価値観点からなされる。例えば、アメリカ合衆国の歴史は「誇りある自力救済の開拓者による民主主義の歴史」と叙述され、あるいは、「先住民の虐殺、奴隷制の暗黒の歴史」としても語りうる。それは実を言えば、客観性というより間主観性というべきだろう。