偶然を恐れるな

「偶然を恐れ」るなと中島・ニーチェは言う。「いかに予測に外れたことでも、いかに理不尽なことでも、いかに不平等に見えることでも、現に生起した以上、それを完全に承認し受け容れ」よと言う。(中島義道『過酷なるニーチェ河出書房新社2016年11月20日p69-p69)俗にいう変えられないものは受け容れよという処方箋である。「その(行為によって引き起こされた)結果に対し全幅の責任を負」い、「その(偶然の)介入を積極的に受け容れ正面から対決」せよ。「予期せぬこと、思いもかけないこと、自分の意図ではないこと、すなわち偶然はひとを試しひとを鍛える」。(中島同書p69)すべての現実を、「神が最善のものとして選択する」のに代わって、「私が最善のものとして選択する」という態度をニーチェは誠実な態度であるという。(中島同書p72-p73)そして最善の選択をしたからには、その結果が予期通りならばそれでよし。真逆の結果ならば、その結果を完全に受け容れる、承認するのがニーチェの誠実な態度と呼ぶものだ。

 俗に「よく生きる」と言われる。ニーチェはその「よく」の意味の変換を要求する。ニーチェにとって「よく生きる」とは、「どこまでもより強くありたい自己の欲望に誠実に」生きることであり、「あらゆる種類の弱さに抗して」生きることだという。(中島同書p83)この世には不誠実に不正直に卑劣に違法に自分だけの利益を追求するような我欲の塊のように生きる者が多い。しかし、ニーチェによれば、不誠実に不正直に卑劣に違法に自分が欲する欲望のままに生きるということは弱いからだという。誠実に正直に適法に生きることは困難だが、だからこそ困難に打ち勝つほど強くあることが誠実な態度なのだ。このような生き方は困難である。つまり、人間は弱いのだ。権力に屈し、人に屈し、誠実をなげうち、正直さをなげうち、法にも触れてしまう。弱いからだ。誰かに嘘をついたことがない人はいない。一部を言わないこと(都合の悪いことを言わずに隠すこと)は嘘をついたことと同じだ。誰かを何かしら(期待とか希望とか)裏切ることもある。我欲のために何かを誰かを犠牲にする。

 過酷なるニーチェ、自分でさえも守ることができないことを言う。