「慣習と理知の氷」

「人間は、一日に十八万七千もの思いをいだくという。(改行)だがその九八%は、過去の記憶の再生。聞くもの、見えるもの、想うことのほとんど、昨日や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけに、いやでも自動的にふち取られてしまう。概知の概念や解釈が、ぼくたち本人の意思を超えて、暗黙裡に即座に分泌され、刻一刻に新鮮であたらしく、唯一一回きりのはずの今この瞬間の光景を『過去化』する。」(古東哲明『瞬間を生きる哲学』筑摩書房2011年3月15日p73)

 「ピュアに斬新で現在的」な「直下のいまここの瞬間を、それ自体として『現在的に生きる』」瞬間=「刻一刻に新鮮であたらしく、唯一一回きりのはずの今この瞬間の光景」が生む思念はわずか2%だとは本当だろうか。明日とか1ヵ月先のことを考えて、企画し、計画することも、「昨日や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけ」が98%を占めるという。そうかもしれない。(古東同書p73)

「ぼくたち人間のがわの認知構造」は「瞬間を見失う構造」、すなわち「生きられている瞬間自体、いつも闇のなかにとどまることを、その現れ方としている」構造になっているからだ。(古東同書p74)

「直下のいまここの瞬間を、それ自体として『現在的に生きる』」瞬間を失ってしまうという。「生きていること(生・実存)も、それとひとつに生きられていること(世界)もともに、すっかり視野から脱け落ちていく」。

 マルセル・プルーストはそのことを「慣習と理知の氷」と名づけた。

「ぼくたちが行うことは、生の源〔原初の生〕へ遡ることだ。現実というものの表面には、すぐに習慣と理知〔推論的理性〕の氷が張ってしまうので、ぼくたちはけっしてなまの現実を見ることがない。だからぼくたちは、そうした氷を全力で打ち砕き、氷の溶けた海〔現実〕を再発見しようとするのである。」(M・プルースト『サント=ブーヴに反論する』古東哲明試訳、古東同書p91)