伊丹十三のこと

伊丹十三は書いている。「私は、ですね、一言でいうなら、『幸福な男』なんです。然り。私は幸福である。あのね、正月なんか、女房子供と散歩するでしょ?うちの近所は一面の蜜柑畑ですよね。その蜜柑畑の中の細い道を親子で散歩しているとだね、あたりはしんと静まり返って、鳥の声だけが聞こえてくる。太陽が一杯に降りそそいで、蜜柑の葉がピカピカと輝いている。静けさがね、こう、光って澱んでるんだな。遠くに海が燦(かがや)いている。子供の声が澄んで響く。私は女房と黙黙として歩く。こオりゃ、しあわせだぜ、こオりゃ、しあわせですよ。ああ、こうなるために俺は今まで生きてきたんだと思いますよ。もう、なにやら、こう、大きなね、光り輝く金のオニギリをね、もうぱくぱく食べている感じね。」(伊丹十三著、「考える人」編集部編『伊丹十三の本』新潮社2005年4月20日p44-p45、1977年2月寺山修司演出パルコ・プロデュース公演『中国の不思議な役人』のためのパンフレットの中の「幸福男」という題のPR文)

 須原一秀はこれは「瞬間の幸せ感」というものであり、この瞬間において、その幸せ感が極大値に至るところから「生きている人間が到達しうるひとつの『極み』」(須原一秀自死という生き方』双葉社2008年p82)と名づけた。もちろん、マズローのピーク・エクスぺリエンス(至高体験)のピークを参考にして名づけたと思われる。そして「伊丹氏が自ら『幸福な男』と呼ぶのは、たまたま蜜柑畑で『極み』に達したからではなく、このような些細な『極み』に彼はいつでも四六時中達している種類の人間であり、彼の見るところ、彼の周辺のいろいろな人々が自分ほど頻繁には『極み』に達している様子がないので、その点で、自分は特に『幸福な男』であると主張している」(須原同書p83)のだろう、という。すなわち「彼(伊丹)は、自前であらゆる方向の『極み』に簡単に到達できる人のようである」と。(須原同書p84)

 その傍証に次のエッセイの文を挙げた。

 「ぽっかりと時間の空いた午後の一と刻を、カウンターで、モーゼルの白など一本取り寄せて、ロングネック(貝の一種)を酒菜(さかな)に原稿を書くなども、まことにもって悪くないわけで、もう、なんでこんな結構な店がこの世に存在するのかという驚きと感謝の念が安らかに我が身を包みこむのを感じる」。(伊丹同書p168-p169、初出「原色自由図鑑」『週刊文春』1977年4月7日号)「でね、今、非常に特殊な例を話したと思われるのは癪なんですねどね、全然特殊じゃないの。この程度の美味に遭遇することは、いわば毎日のことなんだな。」(伊丹同書p169)

 ところが、伊丹十三は旅に出ているときに限定しているかどうかは不明だが、食事を三食は食べないようだ。「まあね、私の場合ちょっと異常なのかもしれん。なんたって私は一日一食の人だからね、もう一日中、朝から晩めしのことを考えてる。今夜どこで何を食べるか。あらゆる情報集めますよ。でさあ、その場所行ったら、まあ、メニューをニ十分は絶対睨んでますよ。まあ馬鹿らしい情熱といえば確かに馬鹿らしい。(中略)でもね、私は旅しているんです。旅をしている私が晩めしを食うんです。晩めしを通じて、その国の文化と対決しようとしてるんです。(中略)その国の一番の良さというものを探り出すことは旅人の基本的な義務じゃありませんか。『...メニューの中に、うまい物が必ず一個はある』」。(伊丹同書p169)と伊丹は書いている。

 晩めしを朝から空腹を抑えて探す、そして食べる。それなら、旨いはずではないだろうか。「こんな結構な店がこの世に存在するのかという驚きと感謝の念が安らかに我が身を包みこむ」と腹の底から感じるのも当然ではなかろうか。

 しかし、「評判や値段の高さに誘導されて、特別に美味しいと感じたりする人とは違って、彼(伊丹)は自前のセンスで、そして独力で探し回って、あっさりとあらゆる方向の極みへと達する人であり、この場合は二つか三つの『極み』に達していたようである。しかもそれを自分の体で自前のセンスで明確に体感している」(須原同書p85)のは確かだと思われる。

 須原によれば、人が「(人生を)生き切る」ことを可能にする条件は「あらゆる方向の極みに日々達しつつ生きる」ことであり、「あらゆる方向の極みに日々達しつつ生きる」という極みの経験というものは、各人それぞれに各人の極みの経験の全体量=総量があるようであり、その多寡は各々相違するという。また年齢によって極みの経験の全体量=総量(質なのか量なのかはわからないが)は逓減するという。しかもそれも個人差があり、伊丹は年齢を重ねても極みの経験の量は変わらなかったようだと推測している。(須原同書p87)

 人生の極みに達する達人、伊丹十三は自殺したとされる。ウィキペディアによれば「事務所にワープロ印字の遺書らしきものが(別途関係者宛にも)残されていて、そこに『身をもって潔白を証明します。何もなかったというのはこれ以外の方法では立証できないのです』との文言があった」という。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%B8%B9%E5%8D%81%E4%B8%89

 須原は、上述の遺書のほかに「伊丹のあの『母ちゃん、最高!』とか何とかいうパソコンの画面に残っていた遺言」(須原同書p87)が残されていたということに基づいて次のように書いている。

 伊丹の「ちょっとふざけたような、どこかはしゃいでいるような」遺言の内容は、「(伊丹の)心の中に深刻さがな」く、「特別興奮してるわけでも、何か頭が変になっているわけでもなく、解放されたせいで普段よりちょっとハイになって、『酒でもちょっと多めに飲んで、飛び降りてやろうか』というような調子だったであろうと想像」する。(須原同書p87)そして女性スキャンダルを単なる口実にして、上機嫌で自死したに違いないと結論づけた。

 伊丹の遺体を検視した警察によれば、ヘネシーのボトルを1本極めて短時間で飲み干したらしく、高濃度のアルコールが検出されたという。

「伊丹さんは、亡くなる直前、すきっ腹にヘネシーボトル1本を飲み干していることが、検死で分かっており、自殺する直前の人間の行動としては、非常に不自然なことから、犯人グループに無理やり飲まされ(流し込まれ)昏睡状態となったところ、屋上まで運ばれ、投げ落とされたのではないかと考えられているのです。(短時間で、度の強いアルコールを摂取すると、昏睡状態に陥るそうです)

http://koimousagi.com/17413.html

 伊丹には他殺説があり、出典不明の殺人の証言などもある。ただ、妻の宮本信子は2002年(平成14年)12月20日ホテルオークラで開催された「感謝の会」の挨拶で次のように述べている。

「本人が決めたことですから仕方ないのですけれども、女房としてみれば、私なりに思うことはあります。でも、それを書いたり喋ったりするつもりはありません。私が死んで棺桶に入るまで持っていくつもりです。」(前掲書『伊丹十三の本』p206))

 これを解釈すれば、やはり、伊丹は例の若いOLとの不倫疑惑報道を受けた形で自殺したと宮本は考えているかもしれない。しかし、宮本の心のうちにおいて伊丹の死が他殺である疑いが濃厚であるという思いがあったとしても、自分と2人の子供の身の安全を護るために沈黙することに決めたのかもしれない。