<いま>というものの不思議

 今日、一週間、一年がずっと続くような感じがする。日常生活というものは、三回の食事をはじめ、一見繰り返しのように極めて類似した形式をとっているが、一つとして同じ今日、一週間、一年というものは本当はない。しかし、同型的な繰り返しに近い形式であることは間違いない。

 この「繰り返し」に近似していることが、ある種の錯覚を生む。

「私はずっとこのまま生を享受できるだろう」という根拠のない感覚である。いや、考え方(認識)としては、人間の生は有限である、いつか死が訪れる、ということは理解している。しかし、それはずっと遠い将来のことだと勝手に決めつけている。

 実を言えば、一日一日、一年一年、人間は老いていく。誕生してから、20年~30年ほどならば、老化現象は成長と言い換えられ、望ましいと考えられる。しかし、40歳ー50歳ー60歳ー70歳ー80歳と年齢を重ねてゆくと、老化現象は、人間の身体を構成する個々の細胞の劣化という形でその現象を際立たせるようになる。

 人間(だけではなく、すべての生物)は細胞死、寿命死を迎える。「客観的・科学的認識を獲得することが、とりもなおさず、みずからを『殺す』」(中島義道『時間と死』ぷうねま舎2016年10月21日p191)と中島は書いたが、要するに、死ぬ宿命を知ってしまったということである。知性を持ってしまったがゆえに、そうした認識は人間に「死への恐怖」を人間にもたらすことになった。

 では、死で終止符を打つ人間諸個人のその生の真実とは何だろうか。

 大森荘蔵中島義道という師弟の哲学者が言うところによれば、過去はない、不在である。だが、人類は、言語による記憶・記録によって、不在となった過去を言語的に保持することができるようになった。人類史を「歴史物語り」として言語的に制作し保存した。できるだけ真理基準に合致するように時代考証して創り上げ、記銘し、教訓・教材とし、未来の予期予測のために役立てた。それは、民族の記憶(歴史)・国家共同体の記憶(歴史)として有効に作用することとなった。(大森荘蔵大森荘蔵著作集』第9巻)

 しかし、個人はどうであろうか。自分の祖父母、曽祖父母あたりまでは覚えている人もいるだろう。もちろん、名門に属する家系ならば、家系図によってかなり正確にその祖先の事績を記憶または記録していることもあろう。しかし、一般的な庶民には無理な注文というものだろう。一般的な庶民は、その先祖は不明なのだ。わからないということは、ないこととおなじである。無なのである。不在どころではなく、全くの空無である。

 真実のところ、ある一人の人間の生涯などというものは、結局は無なのである。よく、人間は2度死ぬと言われる。1度めは生物学的死、2度目は忘れ去られることで死ぬと。だが、本当のことを言うなら、もともと、人は、死ぬことで、全くの無になるが、過去が不在となり、消失することで、人の生きてきた軌跡それ自体が消失してしまう。歳をとることで、みずからの過去の出来事が年々記憶から消失してゆくが、もともと<いま>が次々と湧き出し、過去が次々に消失してゆくことで、私という現存在も消失しつつ、新たに在り続けてゆくのである。ただ、記憶・記録が自己同一的な私という現存在を支えているので、消失という事態を実感として感じられないだけなのだ。

 中島義道は、過去は不在としてあるという。しかし、不在としてあるとはないものがあると言っている。不在のものは無に近い。しかし、過去というものは記憶・記録装置があるおかげで、無とは言えない。「私は言語を学ぶことによって、自分が不在であることを学び、その不在の自分がさらに死ぬことも学んだのである。」(中島義道『不在の哲学』ちくま学芸文庫2016年2月10日p397)つまり、言語は否定性を表現できる。表現できるどころではなく、言語の本領は否定性にあるとさえ思われる。不在というあり方は、まさしく言語の本領としての否定性をよく表象している。「<いま>(というもの)は新たなものが刻々と湧き出す時(そのもの)であり、根源的肯定性であって、それを固定し、記号化し、空間化したもの、その全的否定性が過去」(中島義道『明るく死ぬための哲学』文藝春秋社2017年6月25日p182)であり、その過去を固定し、記号化し、空間化(記憶・記録)するために、かえって、現存在である私の根源的肯定性を否定することが、要請される。それが、すなわち、私が不在であることの意味である。

 中島はハイデガーの蹉跌というが、彼の蹉跌の原因は「『(人間的)私』のあり方は『実体』のあり方を基本にした肯定のあり方の『基礎』をなすのではなく、その否定をなすから」、「『私』というあり方(=現存在)は存在一般の基礎にはなりえない。」(中島義道『明るく死ぬための哲学』p180)からだという。つまり、<いま>という「本来純粋な肯定性」、次々と湧き出すものは、言語で否定することはできない。それに対して、「過去を基礎とする物理学的・客観的実在性」をその<いま>に付与すると、(つまり、<いま>を過去とつなぐと)<いま>は「必然的に純粋な否定性になってしまう」。(中島同書p182)現存在というあり方は「否定の否定」となっていく。すなわち、「純粋な肯定性」(<いま>)を「固定し、記号化し、空間化」する=否定する、そして<いま>を否定した過去という否定性を記憶・記録する=固定する=否定する。「あらぬところのものであり、あるところのものでない」(サルトル)という対自存在であるのが私という現存在である。サルトルの人間存在に対する規定のほうが、つまり、私という現存在のあり方は否定を繰り返すというあり方だという規定のほうが、現実の私のあり方をよりよく表現できているということだ。存在(あること)の基礎(基本)は否定の否定であるとはそのような意味である。