明日はどこから来る

「明日はどこから来るのか」という子どもの問いがある。それは、A系列の時間(「今現在」を基準にした時間)とB系列の時間(歴史年表のような空間化した直線的時間)との不整合(一方を実在、他方を不在としなければ整合しないから)さを疑問に思う子どもの正当な疑問である。明日(実は<いま>のこと)と呼称されるものは「絶え間なく新たなことが湧き出しては消えて行く現場」なのだ。しかし、偶然に地球上において、進化の途上で言語を習得した人間は、地球の自転を一日、地球の公転を一年とし、B系列の世界像をもって、「明日は24時間後に来るのだよ」と子どもに教える。ここで、A系列の<いま>と「私」は不在となる。

「人間の象徴的言語は、動物が用いているいろいろな伝達手段(中略)に還元することが絶対に不可能であり、他に類を見ない」。「動物の脳は、疑いもなく、単に情報を記録できるだけでなく、情報を結合させたり変換させたり、さらにこれらの操作の結果をフィードバックさせて個々の行動を起こさせることさえできる。しかし、これが主要な点であるが、動物ではある個体の独創的で個性的な結合なり変換なりを、他の個体に伝達できるようにすることはできない。これに反し、人間の言語はそれを可能にしてくれる。人間の言語は、ある個人で実現した創造的組み合わせや新しい結合が、他の人たちに伝えられ、もはや本人とともに滅びることがなくなった日に生まれ出たのだと見ることができる。」(ジャック・モノー『偶然と必然』みすず書房1972年10月20日p149-p150)

 こうして、象徴的言語が文明を生み、「私」=「心」を創造した。人間は、B系列の時間を創造し、過去を記憶・記録(言語的に制作し、過去物語りとなした)し、未来を予期予測することで、文明を創り上げた。生物としての人間は、こうして豊かな生活体系を作った。