哲学における心身問題

茂木健一郎氏などの脳科学者たちは、われわれの心的活動は「ニューロンの発火」であり、そのようなものとして、説明し尽せるだろうと意気込んだが、茂木の著書『脳とクオリア』ではうまく説明ができていない。「私という存在者=現存在」が大脳の新皮質前頭前野のどのあたりにあるというように定位することは難しい。生きている私たちの身体という物体の大脳の新皮質前頭前野あたりを切り刻んだら、私たちはたちまし死んでしまう。脳科学は、脳の欠損がどのような影響があるかを割り出し、脳の機能を分類したが、だからといって、私という存在者を特定したわけではない。私たちの思考が脳波として現象することまでは解明したが、私たちの心的活動がニューロンの発火を現象させることはわかるが、ニューロンの発火から、私たちの心的活動を読み取ることまではできなかった。

 私はどこにいるのか。カントもこころ(霊魂)はどこにあるかと問われ、こう書いた。

「物体界におけるこの人間の<こころ>の場所はどこであろうか。私は次のように答えるであろう。その変化が私の変化であるような身体(=物体)、この身体は私の身体であり、身体の場所が同時に私の場所である、と。この身体の中の君の(<こころ>の)場所はいったいどこであるか、とさらに問うならば、私はこの問いの中にうさんくさいものを推測するであろう。なぜなら、次のことに容易に気づくからである。それは、この問いの中には経験によっては知られず、もしかしたら空想された推論に基づくかもしれないものが、すなわち、私の思惟する自我が私の自己に属する身体の他の諸部分の場所にあることが、すでに前提されているということである。だが、誰も自分の身体の中の一つの特別な場所(大脳のこと)を直接的に意識はせず、彼が人間としてまわりの世界に関して占めている場所を意識している。よって、私は通常の経験をとらえてさしあたり言うであろう。私が感覚するところに私はある。」(Bd2.S324)(中島義道の訳)

 

 自分とは「肉体」か?自分とは「私の身体」という意味では肉体と言えるかもしれないが、カントは「思惟する自我が、(思惟する私の)身体の他の部分の場所から区別される特別の場所にある」という考えは「うさんくさい」と言った。そして「<こころ>(ここでは自分と読め)は自己自身に対していかなる場所も規定することはできない。なぜなら、そのためには<こころ>は自己を自己自身の外的直観の対象にしなければならず、自己を自己自身の外に移さなくてはならないだろうが、これは自己矛盾だからである。」(カント「<こころ>の器官」)と言った。

 カントが想定しているのは、当時のスウェーデンボリスウェーデンボルグ)の神秘思想とデカルトの「(人間の脳の)松果体が魂のありかだ」という主張への反駁だ。物質以外のものが脳にあるなんて、物理学上考えられないと反駁している。