カント「純粋理性批判」について

  序文

    緒言

 Ⅰ 超越論的原理論

 第一部門 超越論的感性論

 第二部門 超越論的論理学

  緒言 超越論的論理学の構想  

  第一部 超越論的分析論       

  第二部 超越論的弁証論

     緒言 

     第一篇 純粋理性の概念について

     第二篇 純粋理性の弁証的推理について

      第一章 純粋理性の誤謬推理について

      第二章 純粋理性のアンチノミー

      第三章 純粋理性の理想

     超越論的弁証論・付録

 Ⅱ超越論的方法論

 

以上がカントの「純理」(「純粋理性批判」を縮めてこういう)の構成である。

 

 カントの難しさは、用語の難しさにある。それだけでなく、カントの認識論の独自性があると思われる。その独自性を前提として理解しておかなければ、カントの議論は無駄な、退屈な議論となって、読者を辟易させるだろう。

 せっかく、「人生の意味とは?」「生きるってどんな価値があるのか?」とか「人間の自由とは」「魂は不滅なのか?」「神は存在するのか?」「絶対的真理はあるのか」という切実な問いを考えたいひとがいるのに、カントは、非常に硬く、わかりにくい文章を書き連ねて、当のその人を辟易させて、遠ざけてしまうのだ。

 

では、大事なその前提はなんだろうか。

それは、「独我論」といわれるものだ。(中島『カントの自我論』日本評論社

それは、「森羅万象(世界)は私の表象である」という超越論的(独我論)観念論というものなのだ。

 

 カントは、ひとがものを認識する仕方は、ものが、人間の感官を触発して、表象を構成するのだという。当時、ものを認識することとは、ものを脳が模写することとされていたが、カントは、人間が表象を構成するのだという。

では表象とはなんだろうか。「表象」とはVorstellung 眼前にないものを思い浮かべることで、「表象されたもの」とは「眼前に知覚されている対象自体ではなく、私の心的世界(Gmuet)の「うち」に取り込まれた対象のあり方である。」(中島義道『カントの自我論』日本評論社p34)

カントの使い方で、「表象としてのバラ」を例示すると、

1.私が<いま・ここ>で知覚しているバラ

2.私が昨日見たバラ

3.他人がいま世界のどこかで見ているバラ

4.誰も見ていないが現に存在しているバラ

5.誰も見ていなかったが現に存在していたバラ

つまり心像や意味ではなく、一つの時間・空間における、ある場所に実在するバラのことだ。

カントの認識論が「独我論」といわれるのは、「森羅万象(世界)は私の表象である」と言うからだ。

 

ここで、「超越論的」の意味をカント自身の文章で確認する。

「わたしは、対象そのものを認識するのではなく、アプリオリに可能なかぎりで、わたしたちが対象を認識する方法そのものについて考察するすべての認識を、超越論的な認識と呼ぶ。」(カント『純粋理性批判中山元訳、光文社古典新訳文庫第一分冊p.57)

アプリオリ=一切の経験に先立つ)

非常にわかりにくいが、一つわかりやすい例を示す。

超越論的観念論と経験的実在論の違いについて。(中島義道『カントの自我論』岩波現代文庫の序章p9)

この概念は地動説と天動説のコペルニクス的転回にたとえるとわかりやすい。天動説(経験論的実在論)は見えるがままにあるという一重の視点であり、経験的に納得しやすい。地動説(超越論的観念論)は見えるようにあるのではない。しかし、太陽からの視点で見える世界の光景を表象することで、二重の視点を持つことができる。地動説はあくまでも概念であり、観念であり、表象である。しかし、物理学的数学的実在世界を開く鍵である、というものだ。