経験主義について

野矢茂樹は野矢の師匠だった大森荘蔵を評して、こう書いた。

「大森は生涯経験主義者であり、かつついでに言わせてもらうならば、独我論者であった。」(野矢茂樹大森荘蔵―哲学の見本』講談社、2007年p.181)

 経験主義者とは、経験を超えるものを否定する者のことである。経験主義者はデカルトスピノザらの主張、つまり人間には生得的な「本有観念」(=人間の理性にあらかじめ備わっている働き)があるとする「合理主義」を否定する。「知識の源泉はもっぱら外界の存在にあり、人間が感覚を通してこれを経験することから(人間の)認識は始まる」(岩田靖夫他『西洋思想のあゆみ』(有斐閣、1993年 p.211)と考えるのが経験主義である。

 そして、大森は「独我論」者であるともいう。

 独我論とは、サルトルが書いたように、「私の外には、何ものも存在しない」(サルトル『存在と無』第二分冊人文書院、昭和33年2月25日p28)とする考え方である。(下記ウェブ参照)https://www21.atwiki.jp/p_mind/pages/36.html

 私たちは普通、常識的な実在感情を持つ。それは、私たちの視野からは見えないものについても、それが実在することを当然のこととする。たとえば、私たちが机を見るとき、私たちが見ることができない裏も素朴に実在すると信じている。裏に回れば、「これ、この通りある」と言って、その実在を実証したつもりになっている。また、「仮象」(見かけ)の事象(太陽が東から昇るという現象)について物理学理論が補正することに対してあっさり物理学の見方を承認する。そこには徹底的に「理詰め」で事象の在り方を追い求めることはしない。

 世間一般の人が思っている「経験主義」については誤解がある。真正の「経験主義」とは、常識的実在感情とは鋭く対立する側面があるのである。 経験というものを突き詰めると、現実の存立基盤が崩壊する。それを示したのが大森であった。

 たとえば「痛み」とはなにかと大森は問う。そして大森は書く。どう考えても「痛み」とは物理的には存在しえないものだ。それは自我や意識、精神、私が物理的に存在しないという意味で存在しない。たとえば、私が指を怪我したとき、傷ついた指は皮膚が破れ、静脈の血管から血が噴き出るのであるが、細胞組織が破壊されてしまうだけで、そのことと私が「痛み」を感じることとは別物である。「脳が痛みを感じる」というのも正確ではない。私が感じるのであり、脳が感じるのではない。人間の大脳(前頭前野)は物(神経細胞の固まり-たんぱく質・脂肪・無機質)であり、そのどこを探しても、「私」という存在は見つからない。もし、私が脳のどこかに存在するとしたら、そこは、物以外のなにかが存在することになる。すると、その部分は物がないことになる。しかし、脳のどこを探しても、物以外のものを見つけることはできない。物以外のものがあるとすると、物理法則が変わるが、そういう観察はなかった。しかし、知覚やクオリア(感覚質、質感)、観念や意味の世界はある。物と心の二元論ではこのアポリア(哲学的難題)は解決できない。バークリのように、「物質世界は実は知覚集合」なのだ。(大森荘蔵「物としての人間と心としての人間」『科学時代の哲学』(『人間と社会』第2巻培風館1964年10月、『大森荘蔵著作集』第2巻p.110)