不死でありたい信仰

人間がこの世を去らざるをえない事態は、予測できない。だから、死ぬのならば、がんがいいと言われる。ある程度の猶予期間があるからだ。そして、「死に至る病」になったとき、では、「自分だけがいない世界」に、何か痕跡を残そうと思う人もいるだろう。

 R・J・リフトン、E・オルソンは共著『生きることと死ぬこと』(金沢文庫、1975年)で、それを「不死」の信仰と名づけた。正確に言い直せば「不死でいたい信仰」だろうが、痕跡はその人の不死ではない。単に微かな縁(よすが)にすぎないのであるが、痕跡までがなくなるのは耐えがたいからだろうか。(宇都宮輝夫氏の『生と死の宗教社会学』(ヨルダン社、1998年04月28日からの孫引き、p153参照

①象徴的不死信仰(世界の永続性を信じ、自分が死んでも、子や孫に自分の血は受け継がれていくので、そうした意味では、私は不死だと信じること)

 リチャード・ドーキンスらが「利己的遺伝子」という考え方を提起したが、

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%B7%B1%E7%9A%84%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90

まさしく、こうした象徴的不死信仰を持つ人は、自分の遺伝子がずっと受け継がれ、永遠の生命を生きていくと想像したとき、ある程度のわずかばかりの満足を持って死んでいけるのかもしれない。また、現代中国人の祖先崇拝もこれに分類されるだろう。

 しかし、どう考えても、単に遺伝子が受け継がれていくだけであり、子孫の様子を「草葉の陰」から見守ることはできないのではないか。つまり、見守ることはできないが、元気に生き抜いてほしいという願いなのだろう。

②創造的不死信仰(何らかの仕事を成し遂げることによって自分の死後も永続的な影響を及ぼし、名前や業績など自分の生きた痕跡を残そうとする不死信仰)

 これは、かなりの人々がはまる不死信仰ではないか。学者、科学者、技術者、政治家、実業家などにかなり広範囲に広がっている不死信仰だろう。

③自然的不死信仰(自然との一体化による不死信仰)

 死んだ人が埋葬された後に生い茂った「草葉」は、形を変えた自分だと思うこともあるかもしれない。しかし、実際は、単に肉体を構成する物質が分解されて植物の養分になったに過ぎないのだが。樹木葬を選ぶ人は、こういう人なのかもしれない。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%B9%E6%9C%A8%E8%91%AC

④神学位的不死信仰(「霊魂の不滅、個人の再生・復活による不死信仰)

 これはまさしく文字通りの不死信仰ではある。

リフトンたちが分類した不死信仰は以上だが、まだあるのではないか。

⑤民族共同体の一員として、自己を不可分の共同体構成メンバーとする、不死信仰

①~③の考えを持つ人は、死というものが、虚無(空無)への入り口だと信じる現代人のありうる気持ちだろう。愛する家族や友人たちとの惜別は断ちがたいし、大きな悲しみ、もしくは「怖い」という恐怖心、「生命飢餓感」(岸本英夫)は死ぬまで消えないのだから。

 さて、それでは、「生きた証」という痕跡を残さなくてもいいと思う人、あるいは結果として残すことができなかったと思う人がいたら、その人は、では、上記のような、ある程度のわずかばかりの満足をどのように持って死んだらいいのだろうか。

 カントは「内的経験」=個人史を重視した。「自分が自分だ」というアイデンティティが実感として内観できるのは、この内的経験の累積があってなのである。

なぜニーチェがこうした「全肯定」という考えが思いついたのか。それは、西欧社会とキリスト教と深いかかわりがある。ニーチェキリスト教の倫理を「奴隷道徳」と呼んだ。「人間の憐憫や同胞意識などの倫理的聖化が、不利な状態におかれている人びと―それが自然的素質によるものであれ、生活における悲運によるものであれ-の企てた倫理の世界における『奴隷の反乱』であり、したがって『義務』の倫理なるものは、無力なるがゆえに『抑圧され』ている人びと、つまり、労働と営利の呪いの下におかれている卑賎な職人たちが、何らの義務もなく暮らしている支配者層の生活に対して抱く復讐ー感情の所産」(ウェーバー『宗教社会学論選』(みすず書房、1972年10月25日p39-40)であるとするねたみ(ルサンチマン)説である。