中島義道の『不在の哲学』(ちくま学芸文庫)から

中島義道氏の最新刊『不在の哲学』(ちくま学芸文庫、2016年2月10日)では、「不在」という概念が非常に大切なキー概念となっている。

 哲学のアポリア(哲学的難問)のひとつに、「ものの見え方とその認識」というものがある。われわれがあるひとつの物を見るとき、正面から見れば正方形でも少しずつ移動していくと、それが変形して見える。仮に写真を撮るとする。正面、右側面、左側面、裏面、真上、真下。(実際には写真を撮ることはできないが)それぞれの写真は、一方向からの同じ物の写真だが、それらが、一つの「机」と真に認識できるのはなぜか、という問題である。つまり、机を一方向から見たとき、裏側は見えないが、裏側も裏に回ればちゃんと見えるはず。われわれは、物をそのように総合(結合)して認識しているのだが、それはどのようにしたら可能となるのか。

この疑問をもう一度、「一般的に記述し直すと、S1(一人の主体である人間)がある対象Gを特定のパースペクティヴ(視角)P1から、すなわち特定の射映(フッサールの用語で、物の心像のこと)A1において知覚しているとき、他のパースペクティヴ群Pfからの射映群Afもまた、S1に『不在』として現出してくる。S1は有機体として自己中心化していて<いま>はGを特定のパースペクティヴ(視角)P1から、すなわちGの射映A1しか知覚しえないのだが、同時に自分が現に有していないPfあるいはAfをも端的に不在として知覚するのである。これは想像ではなく、推量ではなく、S1が一つのGを自分がP1から(A1において)現に知覚するや否や、生ずる端的な承認なのだ。ちょうど、S1がひとりでGを知覚しているときに、すでにその裏側や自分に見えない諸パースペクティヴをごく自然に承認しているように。」(中島、前掲書p.42)

 どうしてそれが可能になるのか。中島氏によれば、それは、言語を習得したからだという。言語では、「ないこと」(不在)が表現できる。「見えない」とは、単にP1から見えないだけで、パースペクティヴをずらせば、見ることができる。「端的に不在として知覚する」とはそうしたことをいう。それは言語の中でも、数学的帰納法によく似た数列によって理解するということだ。「端的に不在として知覚する」とは、物をPfとして、つまりP1+P2+...+Pnの集合として知覚するということである。そして、われわれは、確かに「その裏側や自分に見えない諸パースペクティヴをごく自然に承認している」。