今日一日の生活

「今の生活は、また、明日も明後日もできるのだと考えずに、楽しんで芝居を見るときも、碁を打つときも、研究をするときも、仕事をするときも、ことによると、今が最後かもしれないという心がまえを、終始もっているようにすることである。そして、それが、だんだん積み重ねられてくると心に準備ができてくるはずである。その心の準備が十分できれば、死がやってきても、ぷっつりと、執着なく切れてゆくことができるのではないか。」(岸本英夫『死を見つめる心』)

岸本の「今が最後かもしれないという心がまえを、終始もっているようにすること」などできるものだろうか。「今の生活は、また、明日も明後日もできる」だろうと思うに違いない。「心の準備」などいつまでたってもできないのではないかと思う。「心の準備」というものは、自ら行うことは到底できるものではない。むしろ、死期がむこうからやってくるものだろう。そして「死期が近い」かもしれないという予感は、自らの身体の変調を敏感に感じ取ることで自分の意識にのぼってくるのではないだろうか。そして、一晩また一晩と眠りにつく前の気持ちの中で、「このまま目覚めないことが、死ということだろうか」という思いを幾度も反芻していくのではないだろうか。そして、身体の変調は、ある日その兆候を大きくし、それを受け取った「私」は、徐々に死というものを覚悟してゆくということではないか。その覚悟も、「死がやってきても、ぷっつりと、執着なく切れてゆく」という潔いものではなく、「明日は、明後日は」という執着に苛(さいな)まれつつ、身体の多臓器不全状況の中で、その執着の気力そのものがそがれていくのだと思う。

 そうした病床にある人にとっては、生の目標は、一日一日をとにかく生きて過ごすことなのだ。一年後ではなく、今日一日の生活こそが大事なのだ。