生と死を考える

宇都宮輝夫氏は『生と死を考える―宗教学から見た死生学』(北海道大学出版会、2015年3月31日)で次のように書いている。

  すべての人類史における、ほとんどすべての人間は「断ちがたい惜別と大きな悲しみの中で、人はつつましく死んでいったのです。彼らは生をあきらめたのであって、死を進んで受け容れたのではありません。精一杯生きたという何ほどかの充実感を持ち得た時にのみ、人は悲しみつつも生を手放す勇気を持ったのです。」(同書p143-144)

 死を受容するということは死にたいと思うことではない。当たり前だが人間は生を去ることを積極的に選びたいと思う人はいない。死後の世界に憧れるようなカルト的狂信がない限り、あるいは、何らかの召命による覚悟の自死でもない限り、できれば死にたくないと思うものだ。また、死後の世界があると信じている人であっても、現世での生を自殺的行為で終了させたいとは思わないものだ。しかし、死にたくないと思うことと死を受容しないということは、常に相反するとも限らない。しぶしぶにしろ死を受け容れることがありうる。宇都宮氏は「従容として」死を受容するひとにとって、生の受容(いい人生だったという肯定的受容)が含まれていなければならないという。つまり、自分の人生の肯定的受容と死の消極的受容とはある意味、結合しているというのだ。それは、 「精一杯生きたという何ほどかの充実感を持ち得た時」とは、まさに岸本英夫が言っていた「よく生きる」ことができたという自己評価をもって、自分の人生を肯定しえたときに持ち得る充実感のことであろう。そうした充実感をもって人は「別離の悲しみ」を持ちつつ、「生を手放す勇気を持」つことができるということだろう。自分の人生の肯定的受容と死の消極的受容とがあわさっているのである。