日々の随想

心の平安を保つために
 心の平安が乱される原因のひとつに思いどおりにならないということがある。いらいらしたり、むしゃくしゃしたりするのは、思いどおりにならないからである。「こうなればいいな」または「こうなるべきだ」といった期待や当為は裏切られることが多い。いや、「予想したことと真逆のことが起きる」事態が私たちの人生には多いのである。
 ではこうした期待を裏切られる事態をどう考えれば、心の平安を保つことができるのだろうか。
 ライプニッツは「現に生起する現象が一見いかに不可思議で理不尽に見えても、そう見えるのはわれわれの眼や思考が限られているからであって、すべての出来事はわれわれには知られえない無数の理由によって起こる。」(中島義道「後悔と自責の哲学」河出書房新社2006年4月30日からの引用)と書いた。今までのあらゆる世界の歴史の因果の連鎖を見れば、その当時の渦中の人間にはすべての出来事の原因(無数の原因)を知ることは不可能である。充足理由律(ライプニッツモナドロジー 形而上学叙説」中央公論社2005年1月10日の中で、すべての現象には理由があると書いた。これを充足理由律という。) と微小表象(人間の認識能力を超える微小な原因が連続して作用することで生起する表象)とが現象するこの世界にあっては、人は客観的な原因の全てを認識できないし、従って、重要な情報を欠いた極めて部分的な情報によって「選択と決断」による意思決定をせざるをえない。それゆえ、客観的な因果連関が、我々の予想を超えた、または、裏切る結果になることは当然すぎるほど当然なのだ。
 そこでライプニッツは「現実に起こることがいかに悲惨であろうと、それは最善の世界なのだ」と言った。確かに、悲惨な出来事が起こり、今後こうしたことのないようにとの願いと反省をこめて、事態を改革してゆくことはあった。最悪のことが起きない限り事態は改善されないということは、しばしばあったのである。
 われわれが心の平安を保つためには、「尊い犠牲」を受容するという諦念が必要であるかもしれない。