「未来を想像する能力を手に入れた人間は、『自分が死ぬ』という未来も想像できるようになってしまった。挙げ句の果ては、『人は死んだらどうなるのか?』とか、『人は何のために生まれてきたのか?』とか、考え出す。そして、『生きるのがつらい』とか、『…
入不二基義は、『現実性の問題』の第9章「『無いのではなくて存在する』ではなく」において「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか - Wikipedia」という形而上学的な問いについて次のように書いている。 「この形而上学的な問いを、私は『斜めから』眺め…
サルトルは「私の死」というところで次のように書いている。 「それ(死)は、私のすべての可能性の無化として、それ自身もはや私の諸可能性の一部をなさないところの無化として、とらえられる。」(サルトル『存在と無』第三分冊 人文書院 昭和45年(1970年…
高崎将平は『そうしないこともありえたか?―自由論入門』(青土社 2022年9月28日)で自由論について英米の哲学者の議論を紹介している。 決定論や運命論と自由は両立するのか両立しないのか。この場合、自由とは、高崎が述べてきた「自由の他行為可能性モデ…
朴修範は、カントの『純粋理性批判』における「触発」について書いている。 《.......現象が仮象ではなく現実的に与えられたものと見なされるためには対象によって主観が触発されるという事態が必要である。しかしながらそうだとすれば当然ながら主観を触発…
「人生はまともじゃない。ひとは断りなしになかに入ってきて、行く先もわからずに出て行く。しかもそこにいるときは何をしているかわかっていない。」 上記の文章を読み解くと、こうでしょうか。 ①「人生はまともじゃない。」つまり、人間の生は理不尽であり…
「ほとんどすべてのアポリア(哲学的難問)の鍵は『可能性』と『現実性』をめぐってであるように思われる。われわれが言語を学ぶと、世界をまず可能性の相で眺め、次にその一部が現実化したとみなすのだ。こうすると、地球が生まれたのも、人類が生まれたの…
脳科学における「ニューロン(神経細胞)のスパーク(興奮、発火)のクラスター(塊り、つながり)が人間の思惟活動である」という主張を真面目に提起する唯物主義の脳科学者の考え方はいかにもグロテスクである。確かに、人間がいろいろな思惟、想念を発出…
サルトルは、「性質」という言葉を考察している。この語の意味については、ウェブ辞書 性質(せいしつ)の意味や使い方 Weblio辞書 - 言葉に次のように記されている。 『「1 もって生まれた気質。ひととなり。たち。「温厚な性質」 2 その事物に本来そなわっ…
この世(世界)に生を享けて生きていると、予想もしないこと、予期に反したことが多く起こる。善いことや悪いことが起こる。ネーゲルが書いていたように、悪いことの方が多く起こるようだ。人生上の悪いことは、総じて禍(あるいは苦難)と呼ばれる。経済的…
キリスト教がローマ帝国によって国教になり、カトリック教会が成立した後、この預定説は否定され、キリスト教はキリストを信じる全人類を救済する宗教となった。 宗教改革の実行者の一人、マルティン・ルターは書いている。 「神はその望むところに従ってわ…
イエスを教祖とする原始キリスト教は、有能なオルガナイザーであったパウロによって大教団に発展する。そのパウロは、新約聖書「ローマ人への手紙」第3章10-12)において、つぎのように書いている。 「旧約聖書に、次のように書いてあるとおりです。『正しい…
「運命と功績の不一致の根拠に関する問いに満足のいくような合理的な答えをあたえうる、そうした思想体系の姿をとったものはごく僅かーのちに見るように、全体として三つの思想体系だけーであった。すなわち、インドの業の教説(die indische Karmanlehre)、…
ライプニッツは「モナドロジー 形而上学叙説」中央公論社2005年1月10日 の中で、すべての現象には理由があると書いた。これは「充足理由律」というものである。カントもこれは正しいと「純粋理性批判」に書いている。それはこういうことだ。 「現に生起する…
私は自分の意識、自分の心を考えるときがある。そして、「私の心(意識)はどうしてこうも、移り行き、定まらない、落ち着かないものなのだろうか」という思いを持つ。加藤茂はギュルヴィッチの『意識野』という未邦訳の本からか引用して書いている。 「どん…
ヴィクトール・フランクルは書いている。 「それ(心理主義)は価値を貶める」。つまり、「心理的行動過程(それは心理主義によってよく評価されている)の精神的内容の価値を貶めようとする」。「心理主義は常に精神的なものの仮面をはごうとし、無理やりに…
「この理論(意識の統合情報理論)によると、蜘蛛の巣のように複雑なネットワークを持つシステムならどんなものにも意識が宿り得ます。生物だけでなく、ロボット、インターネットなど無生物でも意識を持ち得るというのです。」(立花隆『死はこわくない』文…
死ぬときの苦しみは、病気が招く痛みとともに、死の恐怖による苦しみもある。「長い苦しい病い―—それは死の恐怖のことです。そしてセスプロンはこう言っています。ある人にとって死は『虚無と取っ組み合う』ことであり、別の人たちにとっては自己と対決する…
価値・意味・理念・理想・大義、そうした価値体系一般について、それは存在するのかしないのか、中島義道やニーチェのように「人生に生きる価値はない」という哲学者の本からいろいろと学んでいる私としては、ケーガンの次のような文章に出会うと困惑してし…
すべてを見透す、超自然的意志などない、かもしれない。私は、科学的認識・知識としては同意する。しかし、巷では手相占いが盛んで、四柱推命などの占いの本が売れている。中島からすると、超自然的な意志などないし、私たちの人生はあらかじめ決定されてい…
「われわれは一方では、『同一のもの』を抉り出しながら、他方では、それでは吸収されない『異質なもの』を感じています。すなわち、現実世界を (A)『異質なものの絶対的に一回的な継起』として (B)『同一なものの繰り返し』として というお互いに融合…
私たちは、日常生活において、大なり小なり後悔をしている。後悔しない人はいないだろう。自分の昔の失敗(過失)や故意の所業を「今思い出しても、冷や汗が出る」と言う人は多いと思う。 中島義道は後悔というものを分析して書いている。 「後悔とは過去を…
なぜ自分はこの場所、この国に、この両親の間に生まれたのだろうか。物心がつき、高校で生物学を学んで哺乳動物の生態を学んでヒトという動物が私であることを理解した。しかし、その時にはすでに、言葉を覚え、学び、固有の文化に育まれていた。ただ、やは…
必然的なものはなにもなく、にもかかわらず、偶然的に見えるものが現れるという不条理・理不尽が現れる。すなわち「人間は常に予測のつかない状況に投げ込まれているが、しかも...決断し行為しなければならない。そして、その行為によって引き起こされた…
「偶然を恐れ」るなと中島・ニーチェは言う。「いかに予測に外れたことでも、いかに理不尽なことでも、いかに不平等に見えることでも、現に生起した以上、それを完全に承認し受け容れ」よと言う。(中島義道『過酷なるニーチェ』河出書房新社2016年11月20日…
ニーチェは「神は死んだ」(正確に言うと、Gott ist totは「神は(もともと)死んでいる」、つまり神はもともといないという意味)と言った。真昼に提灯を下げて、その狂人は街の広場の民衆にそう叫んだ。これは単なるたとえ話である。ヨーロッパ人は、おそ…
「人間は、一日に十八万七千もの思いをいだくという。(改行)だがその九八%は、過去の記憶の再生。聞くもの、見えるもの、想うことのほとんど、昨日や去年や遠い昔に覚えこんだ概念とか意味づけや価値づけに、いやでも自動的にふち取られてしまう。概知の…
伊丹十三は書いている。「私は、ですね、一言でいうなら、『幸福な男』なんです。然り。私は幸福である。あのね、正月なんか、女房子供と散歩するでしょ?うちの近所は一面の蜜柑畑ですよね。その蜜柑畑の中の細い道を親子で散歩しているとだね、あたりはし…
「死を直視すべきです。しかし、生への執着を責める理由はありません。それは『悪あがき』ではありません。生への執着には、素直な力強さが感じられます。人間の生命力の強さの表現、生きたいという自然の願望です。それは与えられた生命を完全燃焼させよう…
今日、一週間、一年がずっと続くような感じがする。日常生活というものは、三回の食事をはじめ、一見繰り返しのように極めて類似した形式をとっているが、一つとして同じ今日、一週間、一年というものは本当はない。しかし、同型的な繰り返しに近い形式であ…